どんな感じかな 

さてブログ初体験
[2005/02/12 01:18] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

ROOMのセッション 

ROOMのセッション。いつもここのセッションは、ギラギラしていてテンションが高いのだが、本日はなんとなくのんびりムードである。ベーシストがあまり来ていなかったので、4,5回演奏したと思う。

演奏者としてのインプットが少ない今日この頃である。練習の仕方を変えなくてはならない。内部を充実させるよりも、外部から新しい空気を導入しなくてはならない。

[2004/12/22 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

バックビート(1) 

北米においてドミナントなポピュラー音楽、ということは、ほぼグローバルなレベルでドミナントな音楽において、これまたドミナントなリズムとは、バックビートがあるビートである。バックビートはつきものなのだ。これはあまりにも当たり前だが、じつは驚くべきことだ。バックビートってのは、ヘビメタにだってヒップホップにだって実は等しく存在する例の2拍4拍のスネアのアクセントのことだ。つまり、北米の多くポピュラー音楽のサブジャンルは、おんなじ、なのである。

このバックビートは、50年代のロックンロールのの流行によってドミナントなものに、メジャーなものに一気に躍り出た。ロックンロールってのは、プレスリーに代表される白人の音楽という印象があるのだが、もともとは黒人の音楽だったという点も興味深いのだが(バックビートの原点はシャッフルだと思う)、いずれにせよ、このリズムのフォーマットが、現在に至るまで、世界のポピュラー音楽の世界においては、食品の世界における味の素のように、からみついては離れない強力な必需品となっているのである。

ドラマーは、あーだこーだとポピュラー音楽のサブジャンルの好みやらなにやらをいくら語ろうがなにをしようが、ある意味では、バックビートの生産という機能を果たしている存在にすぎないのである。しかし、ポピュラー音楽に真剣に取り組もうとするならば、このバックビートなるものと一生つきあう決意をしなくてはならないのだ。それはつまり、バックビートにウンザリするという運命を受け入れることでもあるのだ。バックビートにウンザリすること、そこから偉大なポピュラー音楽家への道は始まるというべきなのかもしれない(笑)。構造的にはどれをとっても同一の、つまりスネアが2と4に入るという意味ではどれをとっても変わらないリズムをいかに素晴らしく、新しいものとするか。人とは違う、かつ魅力あるものとできるのか。いかにバックビート及びその他のショットとの関係において生じるグルーブをよいものとするか・・・・。まあそういうことであろう。シンプルだが奥が深いバックビート。である。

[2004/12/17 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

バックビート(2) 

もちろん、北米のポピュラー音楽のリズムは、バックビートのみに還元されるものではない。スイングにはバックビートは必要ないし、カリブだけどアフロキューバンのリズム(クラーベのシステム)もバックビートとは異なるものだ。それらのグルーブの良さは、バックビートと組み合わさるととたんにつまらないものになる場合が多かったりもするので、要注意なのだが・・(もちろん興味深い融合もありますよ)。ディスコのいわゆる4つうち、4 on the earthってのはそれ自体はバックビートものとはことなると思うのだが、これにハンドクラップ等のバックビートが入ることでドッチータッチードッチータッチーってな具合になる。ここで大事なのは、ぽっぴゅらー音楽のリズムにもバックビート以外のシステムがあるということだ。もちろん規則的なビートを無視した表現が可能な前衛ジャズ的なフリーフォームのドラミングだってある。それらを知っているものと知らないものの差は、非常に大きいのだ・・・。・・・60年代の英国のロックのドラマー達の基本的なテクニック体系は、まあジャズ、つまりはバックビートもののためのテクニック体系ではなく、スイング系(日本でいうところの4ビートってやつ)だった。スイング系のテクニックをもったとんがり兄ちゃんたちが、あたらしくてかっこいいバックビートものを叩いていた、いうわけだ。もちろんそれは、モータウンの60年代のセッションドラマーだって同じことだ。しかし、その後、スイングを通らずにバックビートから始まるテクニックが一般的になっていくわけで、それにより、多くのドラマーはジャズ系のグリップを採用せず、よりバックビートが強く出せるようなシンプルな握り方になっていくのだ。日本では8ビートと16ビートという言い方を良くするが、これらももちろんバックビートをもったものが主流である。ではどこがちがうのか・・・・等々。

まあいずれにせよ、繰り返しになるが、2と4のバックビートからはポピュラー音楽を遣る限りは離れることは出来ない。ウンザリしつつも魅惑されること、まあ古女房のようにつきあうことが大切なのである。とおもいますですハイ。

[2004/12/17 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

Jazzkas(林田裕一氏のバンド) 

聴きに行くのは3回目。こなれてきている、と感じた。本日はゲストプレイヤが複数入って、小さなお祭りのような感じ。私も一曲弾かせてもらった。

林田氏は強いうたをもっと出して欲しい、と思った。一つ一つの音やフレーズの隅々に神経を行き渡らせること。但し、それは、こじんまりとまとめあげる、ということとはもちろん違う。あと、管楽器奏者がブレスするように間をとり、管楽器奏者のように歌うこと。これは良く言われることだが、ソロをプレイする時のコツの一つなんだそうである。

これからも楽しみである。

[2004/12/16 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

バンド 2 

振り返ってみると、「セッション通信」で、バンドについて次のように書いてきた。

(1)ライブバンド的なものと、コンピュータ的なものを組み合わせて、面白いものができるといいなあ、と思う。しかし、それっぽいものには、私的には興味がないのだ。いまオウテカが面白くてはまってるけど、単純にノイズ的なものをちりばめてそれっぽくやることは、無理だし意味もないのでは、と。まずはオウテカのグルーブを捉える必要があると思う。このバンドのリズムはなかなか強力である。そしてまたそのグルーブの中のイレギュラーの部分が刺激的であり、そういう揺らぎ的なものをどう捉え、ライブ演奏にその刺激を吸収できるか、とか。

(2)考え方を変えて、演奏する(合奏する)こと。完成品のアセンブリングではなく、単線的あっても、サッカー選手のように、場面場面、ショットショットでの選択の自由(逆に言えば選択の責任なのかもしれないんだけど)がある音楽がやりたいのである。(10/24)

(3)多分、このバンドとしての肝の一つは、この「単にグルーブに身を任せない」ってこと、になると思う。メンバーはもちろんグルーブを愛しているわけであるが、しかし、所与のグルーブを意識しつつも、グルーブありゃオッケー的な立場を取らず、例えばインテンポとルバートの中間のアンビバレントな領域に踏みとどまること。もちろんインテンポなフレームが提示されていたとしても、事情は同じになるだろう。(10/30)

(4)黒人音楽的なリズムの訛りやらレイドバックやらを極端に表現すること(12/6)

これら4つの言葉の間の関係は、あまりにも曖昧である。というかまったく関係ないじゃん、という感じでさえある。私の頭はすごく混乱しているのだ、と自分でも思う。

ただ、このバンドに関する言辞の変遷が、抽象的なアイデアから、より具体的な方法論的なものへと収斂してきた、ということは言えるんじゃないか、とは思っている。いささか支離滅裂な螺旋的収斂ではあるが(但し、最初のアイデアが無効になってしまったわけではないのだが)。

こうした方法論的収斂を、どうバンドの選曲やらメンツ構成やらに適用させていくか、である。

実は上述で述べていたコンセプトとは多少ずれた感じのプロジェクト(ミニアルバム作成)も同時に走らせているから、事態は複雑だ。

最後だが、参加してくれているみんなに強力に助けられている。あらためて、ありがとう。

[2004/12/09 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

バンド 1 

バンドのメンツのウェブにて、シーナバンドでの演奏に関する迷いが書かれていた。真摯に受け止めざるを得ない。新しいバンド立ち上げたはいいが、自分自身がいろんな意味で(特に音楽的にだけど)過渡期を迎えている感じも強く(いまごろになってやっと21世紀が訪れたのか[苦笑])、ポジションがどうも定まらない感じだというのが、一番の問題だと、自分では思っている。

もっとも、徐々にではあるが、ここのところ、方向性が見えてきた感もある。それは先日述べたような、ブラックミュージックの範疇での試み、ということ。なんで極東の黄色人種が・・等々と言わないで下さい。黒人音楽というものは、演奏者としての私にとってユニバースを構成しているのであり、それはもうそういうものなのだから。私にとっては、黒人音楽という範疇は誰にでも開かれているもの、として在るのです。

そういうわけで、ブラックミュージックとして演奏してください。

方法論としては、黒人音楽的なリズムの訛りやらレイドバックやらを極端に表現してみよう、ということです。それを音として具現化するための、あるいは具現化することを容易にするために演奏者が必要とするイメージや、ビジョンや、物語については、基本的にはなんでも有り、だと思うです。

[2004/12/08 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

シーナバンドの録音 

シーナバンドの録音。森氏、天倉氏、おがた氏、林田氏参加、エンジニアは玉野氏@究体スタジオ。3時間半ほどで、ざくざくっと4曲とる。

本日録音したものは、10月に録音したものとともに、煮たり焼いたりしてミニアルバムに仕立てることになる。最終的にどんなものになるのかは、自分でもよくわかってはいない。最近はどうも、自分で良くわかっていないことばかりやっているような気がするのだが、つきあってくれている方々に本当に感謝である。

[2004/12/05 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

良い聴き手と話す意義 

1月9日にシーナバンドでイベントに参加する。オーガナイザー寺田氏と打合せ。出版業界の面白い話をや音楽についていろいろ話す。

話すということの本質は、事前に考えられていたこと、内的に構築されているなにかを外に表出するというところにあるのではない、と思う。話すときに初めて生み出される何か、生み出されてしまった何かがあること、それがあるからこそ、話すことは面白いのだと思う。

私が自分のバンドでやっていることは、漠然としていて自分自身でもとりとめが無いものなのである。人の前で自分のバンドについて語るとき、従って、差し当たりは言葉が失われた状態というのが、実のところなのだ。

寺田氏に述べたことを、こうして今書いている時点で補強して箇条書きにしてみよう。

・ ブラックミュージックに興味があって、北米のある種の黒人音楽のレイドバックが興味の対象だということ。
・ ある種のヒップホップには、強力なレイドバックや微妙な訛りに強くひかれること。
・ Dユangeloあたりの生演奏のスタイルにあるレイドバックの要素が好きなのだが、自分はそういうレイドバック的なものをもっと極端にとらえて推し進めてみたいと思っているということ。
・ そうしたラインから、インテンポとアウトオブテンポの間のアンビバレントな領域に止まる音楽を、現在志向するにいたっていること。
・ 従って、10月30日に演奏した音楽は、フリージャズやインプロという文脈には必ずしも則っているわけではないこと。
・ フリージャズやインプロヴィゼイション的な要素を感じさせる演奏ではあるが、実はそうした音楽をこれまで志向していたわけではなく、むしろ、これからたくさんそうした音楽を聴いていきたいと思っている、ということ。特に、ブラックミュージックを強く意識したフリージャズやらインプロヴィゼイションで面白いものがあるならたくさん聴いてみたいと思っている、ということ。

こうして言葉にして、文章にしてバンドのコンセプトを作り込んでいくことは重要だ。だが、自分の頭の中であーだこーだ考えていてもらちがあかないものだったので、寺田氏と話してみて、そして今それに基づいて記述することができたということは、非常に意味深いことだと思っている。感謝である。

[2004/12/02 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

追悼 

先日ドイツの時に一緒にやっていたボーカルのデイビッドから電話があって、パーカッションのカオクディが死んだことを告げられた。驚いたが、同時にカオクディの死は、それがあまりにも早く訪れたとしても決して不自然ではないことのようにも感じたのだ。カオクディはスペシャルな人間だったからだと思う。誤解を恐れずに言えば、彼は神に近いところに位置していた人間だったのだとも思う。なにか天使的なところがある男だった、とも思う。

現実的なことを言えば、彼は滞在許可の獲得等社会的な身分の保障に格闘していたし、かつてのようなおいしい仕事が少なくなり苦しい生活を送ってもいたのだ。そんな中での病気だったのであり、神に近いとか天使的だなんていうのは、現実を無視したイデオロギー的言辞なんだけど、それにもかかわらず、そういうことを言いたいのは、彼と一緒に演奏して私は得たものがたくさんあったからなのだ。ある種の降臨するグルーブを、彼を媒介として感じることがあったからだ。

断っておくが、それは決して神秘的なものではなく、むしろ唯物論的なものなのだ。それは彼の肉体を介することによって具現したのだ。グルーブのモメディアモとしてのカオクディを、私は天使といいたいし、神に近いともいいたいのだ。さようなら、ありがとうカオクディ。

[2004/11/26 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

コンサル 

満員電車内での習慣だった音楽鑑賞を最近は殆どしていない。聴きたいレコードのコレクションが無い、と感じる今日この頃なのである。試聴が殆どできない日本で苦労して無駄なお金を払って音源を買う努力をするのならば、自分で自分の聴きたい音楽を作った方がいいじゃないか、と切に(拙に?)思う。あるいは「これこれこういう感じの音楽が聴きたいんだけど」って言うと、適切にコンサルしてくれる人がいると有り難い。自分の音楽作りにとっても有り難い。

[2004/11/25 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

深く? 

深く、と昨日書いたが、深くってどういうことだろうか?音楽を深く聴くってのは?音は深いところにあるわけではない、それ(ら)は白日の下に晒されており、全てが赤裸々な状態なのだ。そこには一切の秘密、秘蹟はない。音は音なのだ。従って、深さなんてものはない。それはただ、うつろうのみであり、深度は音楽とは一切関係ないのだ。

人が転落したJR新宿駅にけたたましく響くブザー音。うつろいを忘れたようにただ鳴り響き続けるあの音にさえ、深さはない。

[2004/11/24 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

発表会 

林田氏のお誘いで、鶴野美香さんのお弟子さんの発表会で演奏。ドラムは天倉氏、ギターは森氏、ボーカルみともさん。

お弟子さんの演奏が興味深かった。参照元がある演奏より、中途半端にできる演奏より、ただプレイをすることが精一杯であるような音が面白いのである。ディシプリンによって矯正されていない音列がそこにあり、その音列が強烈なのである。

こなれたプレイからは、磨かれたプレイからは何かが失われてしまう場合がある。それはディシプリンによってレギュレートされていない原-身体的強度の次元だと思う。練習によってこりかたまってしまう手癖になる前の手癖、制度化された訛りやグルーブを会得する前の訛りやグルーブ。そしてなにより、磨かれるまえの音の肌触り。音楽的な洗練は、そうした次元の強度のまえでは無力だ。それは喜びや悲しみといった感情的なものではなく、もっと単なるエネルギーに近いもので、しかもそれは精製されたガソリンではなく、原油に近いものだ。そしてそれは単に単純ではなく、きわめて複雑でもあるのだが、非常に分かりやすいのだ。

音楽の聴き方にはいろいろあるのだ。深く音(音楽)が楽しめた日だった。

[2004/11/23 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

シンゴくん送別ジャム 

ベーシストの友人、鈴木信吾氏のフランス渡航送別会ジャムセッション@マイルスカフェ。
私はホストバンドのベーシスト的な位置付けで参加。楽しい時間を過ごす。信吾氏の(確か66年)ジャズベースを弾かせてもらうも、全然弾きこなせず。主宰は林田氏とみともたかこさん。

[2004/11/22 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

音楽の喜び 

話は変わるが、エンターテインするというのは、自分が楽しむのとは違うと思うのである。しかし一方で、自分が楽しんでなければ、人をエンターテインすることなんてできないのではないか、あるいは意味がないのではないか、と思いもするのだ。これはある種のジレンマだ。もちろん、自分がやって楽しい音楽が人を喜ばせもするならばどこにも問題は無いのだが。
基本的には、音楽をすることの喜びと、(音楽によって)「人を楽しませる」ことによって生み出される喜びとは、別のものなのだ。これをきちんと踏まえないと自分にとってのある種の音楽的発展は望めない、と今更のように気がつく(実は見当違いかも知れないけど)。

しかし、音楽自体(音楽をすること)の喜び、とは一体なんなんだろう?上では二つの喜びを分けてみたが、人を楽しませることによる喜びが、他者の存在を必要とする喜びであるならば、音楽自体(音楽をすること)の喜びは、他者を必要としない喜びなのか?もしそうだとしたら、その喜びとは単なる自己満足ということになるだろう。

音楽にまつわる二つの喜びを、すべて技術的な問題に還元してみたらどうだろう。どうやったら人を喜ばすことができるか、という目的志向・他者志向の考え方をとってみるのである。要は、他者を喜ばす技術として、音楽を捉える、ということだ。他者への奉仕、まさにサービスとしての音楽。

[2004/11/21 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

ライブ 

 おかけんさんのLuz Fonteの本番。結論的に言えば、私のプレイは全然良くなかったから、まずはおかけんさん(&おかけんさんのファン)には申し訳ない感じでいっぱいなのであるが、終わってしまったので仕方がない。今回は、私より年齢はずーっと低いけど、バックバンド等の経験ではわたしなんかより全然豊富なメンツが多かったと思う。そういうプレイヤには、やはりこうしたサポートについては一日の長が明らかにあるなあ、と痛感もした。キーボードの板倉氏が言っていた「曲を固める」というフレーズが印象に残った。この固める作業、固めたものをきちんと本番で出すという作業は、一般の仕事と近いものがあるとも思った。

 気持ち的な部分での取り組み方もすごく重要だなあ、と今さらのように思う。私は基本的につねにボケているわけであるが、日曜の午後のライブでホントにぼけてしまってはアカンのである、反省である。例えば、私は昼飯を食ったあとに仕事の電話をすると、朝より口調が滅茶苦茶になる傾向があって、それはなぜならば、眠くてぼけているからなのであるが、まあそういうことなのである。きちんと対応するということは、基本的な対応に関する知識(語彙や口の利き方等)と経験だと思うのだが、だとすると例えばバックバンドの演奏における基本的な姿勢についても同じことがいえるのではないか。

[2004/11/20 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

リハ 

Luz Fonte(岡田健次郎[おかけん]さんのソロユニット)の臨時サポートのリハ。

集まったメンツは、互いにほとんど初対面状態といっても良い状態だったのだが、譜面や音源の事前配布等、おかけんさんのダンドリが良く、進行もスムーズで私的にもリラックスして取り組めたリハだった。

おかけんさんは、大阪ベースのシンガーソングライターだが、各地でライブをやっている。スイートでほんわか切ない感じのオリジナルは、しかし実はかなり凝ったコード進行をもつものが多く、ぼけっとしていたり油断していると簡単に間違えてしまえちゃうのである。

リハは本日一回。明日は本番である。

[2004/11/19 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

茶のうまい究体でレコーディング 

稲城の究体スタジオで、オガタタケロウ氏の新アルバムに向けたレコーディング。新曲にベース録音第二弾である。第一弾は私の家でやったのだが、さすがに、エンジニア玉野氏を介してのプロトゥールスでの録音はらくちんである。おがたくんもプロトゥールス使いなので、私は完全に弾くだけで、ほんとらくちんである。本日のレコーディングは、素材提供的な趣のあるもので、基本的なパタンを弾くパートと暴れまくるパートがあり、あっという間に終了した感じだった。良い素材が提供できたかどうか、でも料理人は素晴らしいのでできあがりがどんなかんじになるのか、楽しみである。

ところで、この究体スタジオで供されるお茶がうまいのである。紅茶もうまいのである。たんなる玄米茶、たんなる日東紅茶なんであるが、なんだかしらんがうまいのである。もちろんリッチな味だとかそういうのではない。ただ、なんだかすんなりとくる味と香りがあるのだ。雰囲気の問題なのかもしれない。そのむかし昭和の40年代に飲んだお茶や紅茶の趣があるのか・・、よくわからんのだが、ともかくうまいのだ。うまく説明できないがうまいものはうまいのだから仕方ない。

[2004/11/17 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

お宅訪問 

体調悪し。

午後気分がよくなったので、機材を長いあいだ預けていたギターの森孝人氏宅に。森氏宅は、昭和の香りのする小さな戸建てである。秋の午後の日差しを受け、三毛猫君が闊歩する4畳半の居間は実に快適な空間で、森氏らしさのこもった音源コレクションなどをちょこちょこつまみ聴きさせていただきつつ、ぼーっとしてしまう。

時間が止まってしまったような午後のひとときである。ミケランジェロ・アントニオー二の『さすらいのふたり』のラストの長回しがふっと思い出される。もちろん現実には人殺しもなにも起こらず、二人の男と一匹の三毛猫と、こてこてのソウルジャズがあるのみなのだが。

もっとも静止した時間なんてわずかなものだ。温度が下がってきているのに気づく。日が落ちつつある。時間の静止の最後の瞬間である。帰路につこうと外にでると、案の定、家路の母子のざわめきが時のまどろみに終止符を打つ。

しかし、子供は相変わらず、大人に対して意味不明の問いを発し続けている。子供の問いかけは循環する時間に属する。大人は子供の問いに宙づりにされたまま、薄笑いをうかべたり無視したり怒ってみたり問いかけ返してみたりしつつ、この循環する時間に耐えていく/慣れていくのである。

ところで10月30日のシーナバンドのライブでは、森氏のギターを中心としたモyou may sleepモという曲が演奏された。このギターが秀逸なのである。時のまどろみの住人、によるギタープレイなのである。

[2004/11/10 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

新生シーナバンド初ライブ 

しかし、雨が多い季節だ。普通は9月だと思うのだけど、季節感が1月ずれている感じがする。

さて、新生シーナバンドの初ライブである。阿佐ヶ谷ジャズストリートの一環としての、酒井匠氏オーガナイズのイベントに出演させてもらった。

今回はターンテーブル&ラップトップの真鍋大度氏は不参加で、生楽器のみ、森孝人氏(g)と天倉正敬氏(dr)とのトリオの演奏である。持ち時間は一時間。5曲を演奏。このうち最初の1曲目と3曲目は、新しく取り組んでいるコンセプトでの演奏。4曲目は、これも新しく取り組んでいるコンセプトだけど前の三曲とはちょっと違った演奏。2曲目と5曲目は、結構普通の演奏、という感じで、自分で言うのもなんだけど、まだまだ過渡期的な(というか過渡期にさしかかったばかりというべきなのかも)パフォーマンス。

ジャズフェス的な雰囲気も手伝ってか、お客さんが良い感じで、私自身は大変気持ちよく演奏することができた(感謝です)。新しいコンセプト的なものを貫徹するような演奏では必ずしもなかったとは思うが、演奏者は、互いの音を意識しつつ、単にグルーブに身を任せない(モ主権モを「他者」に委譲しない)演奏が、ちょっとはできたような気がする。

多分、このバンドとしての肝の一つは、この「単にグルーブに身を任せない」ってこと、になると思う。メンバーはもちろんグルーブを愛しているわけであるが、しかし、所与のグルーブを意識しつつも、グルーブありゃオッケー的な立場を取らず、例えばインテンポとルバートの中間のアンビバレントな領域に踏みとどまること。もちろんインテンポなフレームが提示されていたとしても、事情は同じになるだろう。

[2004/10/30 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)