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アギラーとアヴァロンを弾き比べる機会あり(この機会についての詳細は後でまた書きます)。 あまりの違いに愕然。 アヴァロンは、ガチガチのいわゆるアクティブサウンド。小生の66年フェンダープレベもあんな音になるのね、って感じにregulateされる(ちなみにつまみが付いていて、一番左にしてました)。 アギラーはそれに比べるとナチュラルな感じがした。 小生的には後者が好きです。ちょっと欲しくなりました。 で、いずれにせよレコーディングは、良いパッシブの楽器、よいDIやプリアンプの組み合わせに1票。音楽のタイプでいろいろ使いわければ使い分ければいいということですな。
自分はどういう心持ちで演奏してんのか。 緊張感: たまに結構緊張することがある。大体、人に自分の演奏をよく思われたいと過剰に思っちゃうと緊張する。緊張すると人によく思われるような演奏ができない可能性が明らかに高くなる。なので緊張って、馬鹿げてるんだよね。人間って面白くできてる。 緊張感を楽しめるようになればいいんだ、とよく言われますが、それはまあ原則そのとおりだと思う。但し、緊張しながらプレイしてる自分と、その緊張を楽しんでる自分との関係が閉じていたら、結局、緊張しておろおろしながら演奏してる場合とさほどかわらない気がする。 イメージする: 20代の頃は、アイドルだったベーシストのプレイをイメージして演奏してたりもしたけど、これは馬鹿げてたなあ、と思う。今はそういった心持ち(誰かのプレイをイメージして弾くこと)で演奏する事はあんまり無い。自分にとっての理想のプレイとプレイする自分との関係が閉じてるのは良くないと思われる。自分の中のイメージに拘泥するより、その場で生まれている音を捉え注目するほうが重要であると思われる。 但し、ホントにあるベーシストそっくりに弾けるようになったり、いろんなベーシストのスタイルを使い分けて弾けるようになったりしたら、それはそれで評価すべき事だとは思う。 聴く事: もちろん、まずドラムを聴いてる感じ。しかし実は集中して聴いているというより、前意識的に聴いている場合が多いような気がする。小生の場合、フロントにからみたいという気持ちが強いため、ドラムを聴く事がおろそかになってる場合さえあるような気がする(これは良くないことだと思う)。 考える: 好きなタイプのドラマーと一緒だと、パターンとかフレージングとかのことを中心に考えながら弾いてるけど、そうではない場合は、どうやって合わせればいいのか、というようなこと(グルーブ関係)を演奏中考えている。そんでまあ、結局合わないで終わってしまうわけで、ならばそんな事を演奏中に考える必要はもしかしたら無いのかもしれない。 読む: 譜面がある場合は、追っかけなくては行けないので面倒である。演奏中にいろんなアプローチをしたくなって、実際してしまうタイプなので、そうすると、ついつい構成等をロストしたりすることが多くなる。ちょっと前までは、ロスト大王だったと思う(自分で作ったアレンジ・構成でさえ自分でロストしてた)が、最近は前よりはましになったとは思う。 但し、ロストのリスクをおって攻めるか、攻めずに守りの演奏するか、のトレードオフってわけでもないように思われる。
エレキベースとタッチの関係はなかなか興味深くて、いろいろ考えるところがあるです。 例えば、リチャードボナは、(多分)アクティブの楽器で、超弦高低めで、なでるようなタッチで弾くといわれております。ほんとに微妙なタッチでコントロールしてるわけです。曲が盛り上がっても、回りの音が大きくなっても、力任せに弾くことは絶対あり得ない。ちょっとでも強く弾くと、一般的な振動を弦に与えられなくなってしまう(この場合、ちょっと強く弾くとスラッピングみたいなことに鳴ってしまうということ)わけです。 必要最小限度の振動でしっかりした音を出すためには、(多分)適切なアクティブサーキットをベースに搭載することが必要条件になるのではないかと思われます。また非常に微妙なコントロールが必要なので、暴れない楽器のが都合がよい。 ボナの例はまあ極端な例(逆にタッチコントロール難しくなる)ですが、一般に最近のエレベの楽器としてのコンセプトの大きな流れとしては、そんな感じなんじゃないかな、と思われるのです。エレベはもちろん電気楽器なので、小さな信号でも適切に(いい音にして)増幅してやれば、オッケーだし、ダイナミックレンジが広すぎないこと(暴れないこと)は、必ずしもグルーブを殺すことにはならないし(ポピュラー音楽におけるコンプの多用)、理にかなっているのかもしれません。 誤解なきよう付け加えますが、暴れないからタッチコントロールが楽とか、そう言うことは全然なくて、ボナが多分そうであるように、より繊細なタッチが必要なのは、実はアクティブで暴れない(あと弦高が低い)楽器であろうと思われます。実際アクティブ臭い音でごりごりと感情任せに弾くくらいカッチョ悪いプレイはないようにも思われるす。パッシブでは「味」になるプレイが、アクティブでは醜悪な感じになってしまうようなことが結構ある気がするです。 いずれにせよ、自分が出したいサウンドに、どういった楽器が合っているのか、その楽器を使ってどういうような演奏を心がけたら良いのかをイメージして、それをしっかりと実践していくってのが大事っすな。→一般的な物言い過ぎて、ほとんど意味を成してないですが(御免)。
アクティブの楽器をどう弾けばいいのか、というのが小生的にはムズいっす。 よくライブな音響のライブハウス等で感じるのですが、アクティブの楽器のが音が整理されているのでーーよくアクティブはお化粧された音というような言い方されることがあるけど、お化粧というよりは、regulateされているというようなイメージをもっていますーー音程が聴き取り易いというか、芯のある音に聴こえます。 パッシブの楽器は音がレギュレートされてないので、ある意味発音される音のなかに要らない成分が含まれてる、あるいは必要な成分が強調されていない感じがします。 パッシブは「鳴らすのが難しい」と言う人もいます。これが具体的にどういう意味合いかは分からないけど、アクティブでは楽にでてくるような必要だと思う音の成分が、パッシブでは出てこない歯痒さみたいなのがあるというような感じではないかと思われます。 また、アクティブとパッシブとは関係なく、暴れる楽器と暴れない楽器があって、フェンダー製の楽器は作りがいい加減なのか結構暴れるので、暴れない楽器(工房系でしっかり作られてる楽器とかに多く、アクティブが多い)との違いを感じることもあります。
最近よく手ぶらでジャムセッションに行っております。自分の楽器のが慣れていて弾き易くてしっくりくるに決まってるのですが、重くて腰が痛くなるし、帰りの電車は混んでるしで、ジャムセッションはほぼ手ぶらで済ませてしまっております。良く行く箱にベースが置いてあったり、ホストの方が貸してくれたりで、なんとかなっております(有り難うございます)。 しかし、自分のでは無い楽器を弾くというのはホント難しいですな。もしかしたら、第三者的な耳で聴いたら別におんなじじゃん、っていうような感じなのかもしれませんのですが、でも弾いてる本人は難しいなあ、なんか違うなあ、と思って弾いているものなのであります。 楽器に慣れるまでにはある程度の時間がかかります。例えば自分が持っているベースでさえも、しばらく弾いてなかった楽器だと、ブランクが長ければ長いほど、慣れるまで時間がかかってしまいます。 でも、自分の楽器以外のいろんな楽器に触れられるという点は、自分にとってジャムセッションの意味の一つだなあ、などとも思います。 最近だと、 YANMOさんのフジゲンのジャズべの5弦withフラットワウンド しんじゅのサドNYCのジャズベ5弦 みーたんさんのジャズべ4弦(あれはどこの楽器だったんだろう、ヘッドにロゴが無かったです) よっしーくんのフェンダーのジャズベ(4弦) あたりを弾かせてもらいました。みんなそれぞれ特徴があって面白いです。YANMOさんフジゲンはフラットワウンドだし渋くまとまっている感じではあるのですが1弦の中程のポジションがバズ気味っていうのかなーーYANMOさんはあれを美味く演奏の表現に取り入てる感じなんだけどーーなかなかのくせ者楽器でしたfor me。サドNYCはともかく図太くブーミーな感じ(楽器は非常に軽いし、一見さんでも弾きやすい)。みーたんさんのジャズべ(これパッシブですよね、、自信なさげ)は表現の幅が広い楽器なのではという印象(非常に重い!)。よっしーくんジャズベは弦のテンション感が強くて、小生にはかなり弾きづらい感じだったのですが、2回ほど弾かせてもらって慣れてきました。 といったように、いろいろあって面白いです。弾かせてくださったベーシストのみなさま、ほんと有り難うございます。小生も自分がホスト参加のセッションのときには自分の楽器を持って参りますので、興味のあるかたは是非弾いてやってくだされ。プレベのフラットワウンドな感じです。
林田裕一氏のオルガントリオ、ジャズカスにトランペットの類家氏客演を聴きに行く(at Mile's cafe)。ドラム天倉氏及びギター森氏とのオルガントリオは安定感を感じさせる段階に入っていると思われる。 私も一曲演奏させてもらった。ベースの田中啓介氏やサックスの荒木真氏、そしてサーロ氏のタップも聴けるセッションもあって盛りだくさんのギグだった。 帰路では森氏と音楽についていろいろ話す。森君の日記にも書いてあるが、音色の話とかいろいろ。 http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=11200&pg=20050225 森君も書いているように、弦楽器系では、ある種のスタンスをとり続けようと思うと、「弾きやすさ」と「得たい音」はトレードオフの関係になると思う。つまり、弾きやすさを求めるとある種の音色を犠牲にしなくては鳴らなくなるし、音色を求めると、スムーズで高速なフレイジングを諦めなくては鳴らなくなることが多いと思われる。もちろんからだが大きくて柔軟な筋肉を持っていて、瞬発力もある人はまた別ですが。 森君と話をしていた同じ頃に、どうやら林田、田中、荒木両氏も食卓を囲みながら音の話をしていたらしい。日記を読むと後からいろいろ分かって面白い。 http://blog.livedoor.jp/hide_and_seek_05221/archives/15060251.html 森君のところでも書いてあるとおり、林田君の音は、いい音だと思う。いうまでもなく、「きれいな音=いい音☆汚い音=悪い音」という図式は、多くの場合正しくない。汚くて強い音がいい音の場合は多いのだ。音に汚れの要素がないと面白くない音楽、例えばある種のロックとかヒップホップとか、またジャズでもそうだと思うのだが、汚れは不可欠な要素でさえあるのではないかと思われるのだ。そういえばクラシックのバイオリニスト、故アイザック・スターン氏の音は近くで聞くと、綺麗な音とはいえない云々という話をどっかで聞いたことがある。 森氏のギターの音は、いわゆるジャズ的なモコモコした感じの音とは違い、エレキギターのもつある意味粗雑な音を一切隠蔽しようせず、時には耳障りな倍音さえ自分の武器にしているように思われる。だからこそプレゼンスの強い音としてアウトプットされ、人の耳に届くことになるのだ。エレキギターの演奏の歴史とは、倍音の獲得の歴史でもあることを忘れるべきではないのだ(ロックプレイヤの極端な倍音の獲得=ディストーション、あるいは逆に極端な倍音の廃棄=ワウ、を参照せよ)。 (ちなみに、昔ジム・ホールをライブでみたことがあったのだが、トーンを絞るようなかたちで「ジャズっぽい」モコモコした音を出すのではなく、きちんとプレゼンスのあるバランスのよい音で、演奏していたのが印象的だったことを付言しておこう) いい音は、ミュージシャンの宝だ。もちろん音は、ただ楽器にこだわったり、エフェクタ、アタッチメント、ディバイスに凝っていれば獲得されるというわけではない。同じ楽器を同じ条件で弾いても、人によって音は全く変わってくるものだからだ。 しかし、ただ音を属人的なものとして考えるだけでは、不足があると思う。 先日テレビでチェンバロの演奏を聴いた。チェンバロというのは基本的には演奏によって音量を変化させることはできない楽器なのだが、奏者はメロディアスな抑揚を強く感じさせる美しい演奏を行っていた。微妙なニュアンスによって、音量の変化がなくとも、音は変わる、音色は変わる。 音とは、音色とは、演奏中常に一色というわけではない。いろいろな色合いが、トータルとしてある演奏者の音となっているのだと考えるほうが、演奏者にとっては生産的な考え方だと思う。つまり、音はただ属人的なものではなく、プレイヤにとって音(色)は可変的なものである、そして音(色)を可変させる技術こそが、最も重要な演奏の技術の一つなのだ。 音を考えるのは面白いなあ。
私の現在のメイン楽器は、フェンダーのプレシジョン・ベースである。これは66年の製作された楽器で、一応オールドの部類に入るのだと思う。ボディは軽く、鳴りがよい(軽いということは木材が詰まっていない→小さな空洞がたくさんある、とうことだ)。 この楽器にフラット・ワウンドというタイプの弦を張っている。この弦は表面がつるつるで、モコモコとこもった甘い感じの感じの音(ハイが抑えられたレンジの狭い音)が出るのが特長である。そして、昔のソウル系のベーシストのように、弦にはミュートをしてボンボンいう感じの音にして弾くことが多い。 弦高は高めである。楽器の指盤の部分(ネック)が少し反ってしまっていることもあり、そもそも弦高はあまり低くすることはできないのだが、先日、禁断の弦高下げにトライしてしまった。 弦の高さは、もちろん低い方が、弦を抑えるぶんには楽なのである。モダンなベーシストの多くは、弦高を極力低くして、テクニカルなフレーズを楽々弾きとばせるようにセッティングしている。そしてレンジが広くハイがビンビン鳴るような弦(ラウンド・ワウンド)を使い、刺激的な音を出す。さらに、音の立ち上がりが早く、サスティーンの長い音も好まれる。ボン、ボーン、というよりは、どーっつ、どーっ、という感じといったらいいかな。 というわけで、私のメインの楽器のセッティングは、あまりにも今風の傾向とはかけ離れ、ある意味アナクロ趣味ともいえるのである。しかし、自分では、実はこれを密かに、楽器選択の「ポスト・モダン」、なのだ、と思っている。 楽器を弾くとき、人は弾きたい音を思い浮かべているはずだが、人は、どのように自分の弾きたい音をイメージしているものだろうか?エレキギターやエレキベースを弾くとき、不可避的に鳴っている様々なノイズのことを、弾いている本人はどう捉えているのか?邪魔なものとして排除してしまいたいと思うか、そうしたノイズも込みで、エレキギターやエレキベースの音を捉えるかで、プレイヤの考え方は大きく異なってくるだろう。奏法的にもいろいろなことがいえる。ミュートしていない開放弦が勝手に鳴ってしまうことに敏感であっても、それが面白いと思うか、耳障りだと思うか、とか。左手のポジション移動によって出る摩擦音を面白いと思うか思わないかとか・・・・・。 例えばドラムだと、バスドラをならすためのペダルがきしんだり、他の楽器(特にベース)の音の影響を受けてスネアのスナッピーが勝手に鳴ってしまったり、なんてことがあったりもするわけだが、これらはまあ、一般的には音楽にとって不必要な音ということになってしまう。しかし発想をちょっと変えてみたい気もするのだ。 録音技術やエレキ楽器の発展史は、邪魔なものを極力排除し整ったものを作る歴史だったとはいえないか?音の新大陸開拓における先住民の抹殺史。 例えばヒップホップの汚れた音は、抑圧の回帰、排除されたものの回帰としては捉えられないだろうか? というわけで私は、昔の録音が含む歪みやノイズに、レコードのスクラッチノイズに、そして、整えられていないエレキ楽器から出る電磁波に、そうしたものが含むノイズ的なもの(ノイジーなもの)に、抑圧されたものを聴く。そうしたものも込みで、(音)世界は構成されているのだ。 さらには、ノイズと非ノイズの区別、整っているものと整っていないものとの区別、音楽的な音と音楽的ではない音との区別ではないもの、そういう区別とは別の解釈枠組みで音をとらえること。そして、抑圧されているものをそうした解釈枠組みの中でそうでないものと同じ地位で扱うこと。 楽器に話を戻そう。昔のぶこつな楽器をぶこつに鳴るようなセッティングで弾くと、出てくる音もなかなかぶこつなのである。楽器そのものが荒々しくノイジーに主張する、その音を捉えること。あたらしい楽器が排除してしまった何かをピックアップできる楽器、そのための古い楽器の利用、ということなのである。 というわけで弦高また高くしないと。。。
キーボードの鈴木潤さんのページを読んでいたら、ピアノの練習して肩こりがなくなる、と書いてあったのが印象に残った。なぜならば、私は練習すると肩と胸が凝るのからである(笑)。 練習だけではなく、ともかく楽器を弾くと肩がこるし、指は痛くなるし、散々なのである。フランクフルト時代には、左手の人差し指が「ばね指」になったし、最近は右手の手首が腱鞘炎なのである。そういえば、ドラマーの天倉氏は、腱鞘炎のもっとひどい状態になり、長い間ドラムを叩けなくなってしまったという。私どころの騒ぎではなかったのである。 楽器演奏に伴う様々な身体的苦痛は、これはもう仕方ないものと考えている。だましだましである。そうやってだましだまししながら、エントロピーは増大していくわけである。
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