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日本にはいろんな表現形態の諸ジャンルがあって、ここでは主としてポピュラーカルチャーというかサブカルチャーというかそういうものについて考えてみると、オリジナリティがあるジャンルって少ないなあ、としみじみ思う。 アニメやマンガは、主として海外の諸シーンとはほぼ関係なく、日本国内のシーンにおいて新しい物が生み出されて行くという非常に日本オリジナルな表現形態だと思う。それに比べると、音楽は、まあほとんどが外の(主として米国の)音楽を参照して作られている側面を持っている。 もちろん日本のJ-popの特徴はそもそもハイブリット(異種混合)感にあるわけで、海外(主として米国)で流行している意匠を採用して(パクって)組み立てられているという側面をほとんどの作品が持っている。 アニメやマンガは、それを成立させるための意匠を海外に求めるということは例外的であるように思える数少ないジャンルであると思われる。アニメやマンガのクリエーターは、海外の動向等についていっさい気にする必要がない、珍しいジャンルの住人なのである。 きわめてドメスティックなこれらのジャンルは、ハイブリッドなどといういい加減な用語(どうにでも解釈できる都合の良い言葉)を必要とせず、ジャンルとしてのオリジナリティを常に保持しうる、すなわち高度に自立したジャンルなのである。 小生のメインフィールドである音楽(ポピュラー音楽)は、言うまでもなく、その時代時代の海外での流行を常に取り入れることによって、新しいタイプの音楽を作りだしていた。Without using musical ideas produced in foreign countries (espacially US) , We can not do anything in japanese popular music field.てなわけなんである。 そうした状況を克服する方法は多分3つある。 1 例のハイブリッド性こそ日本のオリジナリティと考える 2 日本オリジナルといった問題などはまったく意味のないものと考える。 3 日本のマーケット云々ではなく、世界的に成功する余地のあるインターナショナルなコンテンツ制作を模索する。 (追記) アニメやマンガは日本オリジナルな表現形態と書きましたが、実際のところは、米国(ディズニー等)をルーツにするという側面が多分にあります。例えば初期の手塚治虫のマンガとか参照すれば、それは一目瞭然です。 但し、現状では、そうした起源としての外国性の痕跡は既に埋もれてしまっており、オタクなどと呼ばれる愛好家達を中心に、海外の類似表現形態を参照したり依存したりすることなく、自律したかたちで、あるいは閉じたかたちで、新たな作品を生産(再生産)可能な比較的大規模な装置が構築されているわけです。 この装置は、いまや夏と冬には50万超のオタク達が参加する規模になったコミケに出店される同人誌、商業出版社が発行する雑誌や単行本、ジブリのような大手の劇場用アニメ、民放深夜枠で複数放映されているアニメ、それらのyoutubeやニコ動等への無断アップ、エロゲーや美少女ゲーム、ライトノベル等にいたるまで、種々のアウトプットチャンネルを兼ね備え、ボトムアップ的でもあればトップダウン的でもある、なかなかそれなりに充実した内容をもってるわけですな(ちなみにその装置の地理的中心が秋葉原)。 で、アウトプットを構成する諸要素、諸意匠(もちろん萌え要素とかツンデレとか戦闘美少女とかも含まれる)のほとんど全てが、基本的にはこの装置の枠内で様々に物語られることにより醸成された自前のものであるとことが、この装置の大きな特徴となっていると思うわけであります。
ちゅうわけで前の記事の続、「勝ち組」「負け組」ですが、これはいうまでもなく経済的な価値尺度ではかられることになる競争の結果の勝敗なわけですわな。 残念ながら地球全土を資本主義という妖怪が徘徊しているために、経済的な価値尺度で計らざるを得ないわけですわな。 そういうわけで、以下例え話ですが、上海の日本企業の下請け工場で働いていたけど失業中の農村出身労働者と、家庭が父親不在で崩壊にいたったその日本企業の日本本社で働いていた中間管理職はともに「負け組」というに値すると思うわけですわな。 多分失業したその農村出身労働者君は、上海の金持ちやらと同時に日本をそして日本人を憎むわけですわな。そして日本の中間管理職君は中国はチベットを抑圧するわ食べ物には農薬を混ぜるわでとんでもない国だし奴らだと思うわけですわな。 ともにある意味被害者「負け組」軍団の一員なんだけど、憎み合ったり、嫌い合ったりするんですわな。 ケイト・ブランシェット、ブラピ、菊地凛子、役所広司出演の「バベル」って映画が、一丁のライフルを巡ってのグローバルな連鎖関係のお話なのですが、そんな映画を上のような、負け組ともに憎み合い、みたいな話で撮ってほしいと思ったですわ。
「勝ち組」とか「負け組」という言葉が流行ったのは、高度成長が終わって、「勝負」がゼロサムゲームになったからなんですわな。 高度成長時代は、パイ(冨)がどんどこどんどこ増えていくから負ける人がほとんど出ない世の中で、そういうわけで、一億総白痴化、ではなくて、一億総中流時代などとも言われていたわけですわな。 ところが失われた10年を経て、ゲームは完全にゼロサムベースになった。こうなると、自由競争は確実に「勝ち組」と「負け組」をきっぱりと生むわけですわな。 こうなると、共同体(国民国家ですわな)の構成員(国民ですわな)が保有する(と想定される)平等性というものをいかに考えるか、という問題が表面化するわけですわな(してないかも[苦笑])。 しかし、このグローバル化のご時勢、勝ち組負け組は単純に単一国家ベースで云々できないのでして、いろいろ複雑なのでほんと困ります。
例えば、深夜1時半、最寄りの駅にたどり着き−電車はどっかの駅で線路に人が降りたとかかで15分遅延ー明日は10時からビジネスミーティングだなあ、やれやれ、などと思いつつ、なぜか駅前のチェーン店系居酒屋の重力に打ち勝てずにひきこまれてしまい、妙に薄味の純米酒ーグラス、受け皿及び受け升になみなみとその妙に薄めの純米酒(690円也)を注がれる意味不明の過剰サービスを享受しつつ、タコブツ(480円也)をとりあえず注文し、iPodでは古内東子の「誰より好きなのに」が流れ出し、それじゃあついでに松原みきの「真夜中のドア」でも聴いちゃおか、ってな深夜特有のへんなセンチメンタリズムに落ち入りつつーいざ聴いてみると全くセンチな気分にはなれず、しらじらとしつつも、カウンター前のちょうど1ダース分の鯵(あじ)が明日明後日の命だとも知らずにひらひらときらきらと泳ぐ水槽を注視めながら、iPodのシャッフル機能の僥倖により、セロニアス・モンクのコルトレーンと一緒にやったライブ版が流れ出したらいきなり鯵(あじ)たちが生き生きと見えだして、たこぶつ終了、続いてオーダーした「青なまこ酢」(480円也)をコリコリココリコリとやりながら、耳はモンク&コルトレーン、口はナマコをコリコリコリコリ、目線は鯵1ダースの群舞という、いわば至極のサブアーバンな快楽が、こんなところで、こんな時間に味わえるとは。
正月はなんといっても箱根駅伝。こっくりこっくりしながらも、朝8時から2日連続で観ました日テレ。 今年は3チームも途中棄権という珍しい事態が発生し、関東学連選抜チームが入賞しちゃうとか、去年優勝の順天堂が最初から大コケだったりとか、なんだか珍現象がてんこ盛りの大会でしたが、飽きませんね、箱根駅伝(既に来年が楽しみ)。 20チーム、200人の選手が全員調子いいわけないし、1チーム10名だって調子いい選手揃えるのは難しいんだよね。で、みんな必死にタスキを繋ぐために、「責任」を感じて必死にがんばることになる(トップから10分離されると、タスキをつなぐ前に繰り上げスタートになっちゃう)。あと10位以内だと来年シードになるから10位以内に入るための争いがまた面白い。 本当によくできている競技だと思います。あの箱根の山を登るってのも、よくできている設定だなあ、と思う。 ー^ー^ イチローのドキュメンタリー(なのかなNHK) イチローは、毎日決まったことを決まったように行っていく。7年間ずっと朝昼兼のカレーを食い続け、同じウォーミングアップを行い、試合が終わると足裏マッサージ機。 そうした儀式的生活と、打撃技術の休み無い更新・発展は、どうやら表裏一体なのだ。すべては、どうしたら「よりよく打つことができるか」という、ある意味禅問答といってもよいだろう果てしない問いへの回答を生み出すために回っているように思える。 問いがシンプルだから生活もシンプルなのだ、と思った。ただし、イチローの場合、それを複雑にするのは多分プレッシャーというやつだ。当たり前のことではあrが、天才イチローも社会的な生き物なのである。 足裏マッサージ機を欲しくなったマス消費者な俺とほほ。 ー^ー^ 告知 1/7(月)に新宿golden eggでジャムセッションをします。 http://g-egg.info/top.html ホストは椎名(B)、森孝人(G)、工藤明(D) チャージ1000円プラスワンドリンク500円 よかったら遊びにきてください。音楽的な出会いの場になればいいなあと思っております。
00年代も早いもんで、もうすぐ2007年ですからね。 00年代ってどういうディケイドだったんだろう。特に文化的に、あるいは音楽的に。 いまんところかなり薄い感じがする。.もちろんポピュラー音楽の話。90年代がかなり濃かったからね。 ことによると、ほとんどなんにも起こらなくて終わってしまうのでは、、、とさえ思う。 俺が知らないだけかもね。あるいは、そもそもマスカルチャー的な音楽的現象ってものが、あり得ない時代になってるのかも。このまま既存のマス音楽産業で全然レコードとか売れなくなって産業構造自体だめになって、ガラポン、なんて面白いかも。もちろんそんなこたあ、あり得ないだろうけど。いや、そのくらいオモロい音楽(パッケージ的に)、刺激的な音楽を聴いてないかんじがするのです。新しく生み出されているを刺激的な音楽として聴かせるための文脈(作り)も貧弱な感じがする。誰か、どうにかしてくれ。 いろんな人に聴いてみても、いま熱中してる音楽って無いかんじがするのです。ほんと、かなりヤバい。なので、ぎゃくに言えばor極論すれば、いまなんかの音楽にはまってる人は、幸せな人か、とんちんかんな人かどっちかってことになるのですw。 こまったね。まあ、私が不感症なだけなのかも、なのですけど。 まあ、そういうネガティブ全開なはなしはさておき、 ネット上の書き込みとかを読んでると、美しい声の持主の書き込みとかって、読んでるとその人の声が頭の中で鳴るので心地よい。いい声、特徴のある声の持主って得(?)だなあ、と思う。声の力。 ライブ告知again: 12月15日(金曜日) @西荻窪CLOPCLOP http://www.clopclop.jp/ 椎名達人バンド 椎名達人(B) 森孝人(G) 伊原“ani kki”広志(G) 白根佳尚(D) ¥2000+オーダー Open:7:00 Start:8:00 12月16日(土曜日) 【SoulGardenVOL.12】@青山JANOJA http://www.janoja.net/ 椎名達人バンド 椎名達人(b) 森孝人(g) 小森耕造(d) w/Takeo R&BManufactures 武蔵野ファンク Charge:ADV 1000円 / DOOR 1200円 (D別) Open:7:10 Start:7:30 (椎名達人バンド→武蔵野ファンク→Takeo R&BManufactures) あと、12月17日(日曜日)に立川のクレイジージャムに「ぷろじぇくとえっくす」というバンドで 出演します。 http://www.crazyjam.com/ところで、ポピュラー音楽のできは、ドラムで7割が決まると思っております。ドラムは極めて重要なパートで、ドラマーはクラシック音楽における指揮者のような存在になり得る。ポピュラー音楽においては、間違いなくドラムこそが、音楽を支配する力を最も持ちうる存在なのです。生まれ変わったら、ドラマーになりたいなあ、と思う今日この頃です。結構そう思ってる人って多いんじゃないかな。でもまじめにドラマーやるのって大変だとも思うわけで。。。 なんかとりとめないなあ。。。
いじめはいまに始まったものではなく、たとえば30年前私が小学校だった時もあったし、もちろん学校の中だけではなく、大人の職場のなかにだって、家庭のなかにだってあるものだ。様々な共生の場において、ネガティブなエネルギーが他者に対して発揮されてしまう場合ががあり、それがいじめというかたちをとってしまう場合があるのだ。これは、「そういう場合がある」、というよりは、そういうことは「必ず起こってしまう」、と考えた方が良い。人はだれでもネガティブなエネルギーを抱えてしまうものだ。 フロイトが「死の欲望(デスドライブ)」という概念で説明したものは、人のもつ、そうした不可避なネガティビティ一般だと考えることができるだろう。もちろん、そうした否定性は、他者だけではなく、自分へも向かう、すなわちそれは究極的には自殺というかたちをとって現れるであろう。そう、つまり、いじめをする側も受ける側も、強い(暴力的といってもよいであろう)否定性が心身を支配しているのだ。 とりあえず言えることは、「いじめ」は誰にとっても客観的に捉えうるものではなく、だれもが抱えているものだということだ。端的に学校が悪いとか、社会が悪いとか、そういうかたちで捉えようとすると、なにかが抜け落ちる。例えば、いじめを苦にして自殺した子供の親の前で土下座する学校の責任者、この構図は、人に「そういうことではない」という気持ちを起こさせる。それは責任の所在の在り方とかそういう問題ではない。例えば、そうした構図=報道を受け取る自分が、それを(「苦笑」というかたちで)「おもしろがって」いるということだ。そこには、いじめの構図が幾分かは反復されている。同時に、当該のいじめを行う人たち(子供達)は、実は、いじめられる子供達と変わらない普通の子供なのであり、それはいじめの報道を受け取る側のものと共通する「普通さ」なのである。いうまでもなく、これを書いている私もその「普通さ」を共有している。。 というわけで、いじめについて語るための前提条件を確認したところで、今回はおしまい。以下、週末のライブの告知でございまする。 12月15日(金曜日)@西荻窪CLOPCLOP http://www.clopclop.jp/椎名達人バンド 椎名達人(B) 森孝人(G) 伊原“ani kki”広志(G) 白根佳尚(D) ¥2000+オーダー Open:7:00 Start:8:00 12月16日(土曜日)【SoulGardenVOL.12】@青山JANOJA http://www.janoja.net/椎名達人バンド 椎名達人(b) 森孝人(g) 小森耕造(d) w/Takeo R&BManufactures 武蔵野ファンク Charge:ADV 1000円 / DOOR 1200円 (D別) Open:7:10 Start:7:30 (椎名達人バンド→武蔵野ファンク→Takeo R&BManufactures) 二日連続で「椎名達人バンド」なる私リーダーのセッションバンドであります。ギターの森孝人氏は両日とも出演ですが、金曜日はもう一人ギターに"アニキ"が入り、またドラマーが両日異なるので、一部同じ曲をやるにしてもだいぶ表情が異なるものになるものと思われ、自分でも楽しみです。よろしければ、是非聴きに来て下さい! なお、両日ともいらして下さった方は、私が一杯おごります。
いうまでもないことだが、北朝鮮への経済制裁は、あれは対外政策というよりは、むしろ国内政策であるということ。 「美しい日本」なるものを正当化させるためには、「汚い外国」が必要なのである。 そうそう、例えば、中国の汚染。 これは、ナショナリズムの問題。 ソフトロック、スローフード、ビューティフルジャパン・・等々、一連の口当たりのよい形容詞による修飾。これらは原則として、ハード、ファスト、ダーティといった、否定的価値をもつことにより成立するイデオロギ−的構築物としてとらえておく必要がある。そしてそれは、ある現実を隠蔽する。 新しい首相(になる人)の考える日本の「美しさ」がどういうものだかはよく知らないが、この人は、前の首相以上にナショナリストであり、、また、ナショナリズムを戦略的に利用しようとしているようだ。 ナショナリズムは、内部にある対立関係(矛盾)を、内部と外部との対立関係に置換することにより内部の矛盾を無きもののようにしてしまう、きわめて有効なイデオロギーである。 例えば、レッズとアントラーズのサポータでも、日本代表なら一緒に応援するように。
日本の首相は、自らのイデオロギー的信念に即して、靖国陣社に参拝した。 これに対して、やれ、外交上云々とか、アジア諸国との関係上云々とか、国際法上云々とか、国益のため云々だとか、そういうレベルで参拝反対の議論を行うのは間違っているように思う。正しいリアクションは、単純に、小泉が心から適切に感じるイデオロギ−的信条そのものに対して、反対することではないか。靖国に参拝することは、信念として間違っており、すなわちそれは悪だ。但し、その悪を、「客観的」に、かつ「説得的」に語ること。
ワールドカップが終わった。 ロナウジーニョのになると予想されていたこの大会は、完全にジダンのものとなった。 あの「ヘディング(頭突き)」ーいうまでもないことであるが、サッカーの規則に沿って、手などでは行われなかったのであるが―は、「マルセイユルーレット」と同じくらい美しいものだったと、あえて言ってしまおう。 快感原則(平衡状態)ーロナウジーニョの愛するサンバのグルーブ: カーニバルの狂躁は実は秩序の再生産と同義なのだーなどとは根本的に異なる、死の欲動をかいま見せること、それがジダンのサッカーの秘密だったのだ。
大きな政府スウェーデンで税金ばりばり払って在住釣三昧しておられるMIXIの「浪々と吹く」殿からの酒バトンっす。 ■今、冷蔵庫に入っているお酒の容量は? 赤ワイン(友人の結婚式でいただいたメドック)ボトル半分→料理用 日本酒 純米酒紙パック→料理用 その他冷蔵庫外に 紹興酒→料理用 カルバドス→料理用 インディアンラム→料理用(インドのラムはこくがあってよい) 等 ■好きな銘柄は? ・国産のビールだと、「よなよな」というエールが好きだったです。ビールはエール系が好きです。 ・うまみが極めて少なくて穀物の匂いがちょっとだけする発泡酒が出た頃はおもしろがってよく飲んでいた。 ■最近、最後に飲んだお店は? ライブハウスでハイネケンを飲んだのが最後です。2週間ほど前。 1年ほど前までは毎日飲んでいたのですが、現在はあまり飲まなくなりました。飲酒は私にとって人生の喜びの一つだと考えていたのですが、どうもそうでもなかったようです。 でも、飲酒が嫌いな訳では全然ありません。飲みに行きましょう! ■よく飲む、もしくは思い入れのある5杯 以下は思いだす飲酒体験。 1杯目:高校の時、トロピカルカクテルブーム(サントリーの戦略)にひっかかって、友人とお金を出し合って各種スピリットとジュース等を買い飲み会をして飲み過ぎてゲロッた時の各種カクテル的なものの匂い 2杯目:ボーヌのレストランで飲んだボーヌ。素晴らしい香り。 3杯目:NYで飲んだブルックリンビールやエール。あちゃらのビールはドラフト系はホップが効いているのか、薬臭くて面白い場合があります。 4杯目:フランクフルトでよく飲んでいたアフフェルヴァイン。特定の銘柄が酸っぱくて美味しかったのですが、銘柄覚えておりません。 5杯目までいきませんですね。日常的な飲酒で、飲酒自体を楽しんでいたのは、どうやらフランクフルト時代(アフフェルヴァインを愛飲)のみのようです。あとは非日常的な飲酒体験ですね。 酒も食べ物も、基本的にはその土地のものが最高だと思います。残念ながら東京産ではいい酒が無いのではないでしょうか。そういえばユーミンも歌ったように、私が住んでいる府中にはビール工場がありました。しかし、基本的には日本のビールは好みません。地元産のうまい酒を愛着持って飲めるような、そういう人生も良いと思うのですが、残念ながら、東京では無理でしょうな。 ■ジョッキを回す5人 デンクロウ様、じゅんぺい様、コニー様、eye様、左サイドバック様 お暇でしたらよろしくお願い致しまする。
日本唯一のワシントンGO-GOバンド、Gloove Planetのホンセクのデンクロウ氏からのドリームバトンです。 Q1・小さい頃、何になりたかったか? それはあまりにも恐ろしくて口には出せない。 Q2.その夢は叶ったか? それはあまりにも恐ろしくて口には出せない。 Q3.現在の夢 それはあまりにも恐ろしくて口には出せない。 Q4.宝くじで3億円当たったら? それはあまりにも恐ろしくて口には出せない。 Q5.あなたにとって夢のような世界とは? それはあまりにも恐ろしくて口には出せない。 Q6.昨晩見た夢は? それはあまりにも恐ろしくて口には出せない。 Q7.この人の夢の話を聞きたいと思う5人は? 東京のみとも女史、東京の林田氏、パリのsingo氏、スウェーデンのIchro氏 ----------- おまけ: 特別質問fomデンクロウ氏 1)自分が見る夢で頻繁に陥るシチュエーションは 昔はジャンプするとふわふわ浮いている夢を良く見たが、最近はみない。それより、ガチガチに凝った筋肉がほぐしてくれろとうるさくて睡眠を妨害され、あげくの果ては夜中の3時にラジオ体操第一及び第二を脳内で口ずさみながらのアクティブな時間を過ごさざるを得ず。ふわふわ浮かんでいる夢どころではないのかもしれない。 多分、寝る前にきちんとストレッチ等をすればいいんですよね。 2)自分の見る夢を自分でストーリーをコントロール することが出来ますか? 自分のみる夢の「自分」と、ストーリーをコントロールする「自分」とは、同じ「自分」だろうか。たぶんこれは違う自分であり、例えば無意識も意識も「自分」だとしたら、すべては可能だと言えるだろうし、複数の自分を種別的に考えるとしたら、前者の自分と後者の自分との相互関係等を複雑に論じなくてはならず、大変な騒ぎになりそうである。 たぶん常識的には、夢とは内的な他者の領域であり、自我(意識)の力が容易に及ばないものであると考えられていると思われる、両者の間にはより複雑な弁証法的関係性があると思われ、それを明らかにするのは今後の課題である(誰の課題だ?)。 経験的には、夢を自分でコントロールする能力を自分が持ち合わせているとは思えないですが、なにしろ自らに他者を含み込む自分のことだから正確には・・・・(くどい)。 3)夢で登場した状況や風景が夢のあとに、同一のものと 重なった経験はありますか?(dejavu) dejavuは、かつて良く体験したことがあるが、参照体験のほうが夢だったかどうかは定かではない。私的にはdejavuは、過去の体験の有無とは全く関係なく起こることであると思われる。つまり、dejavu体験は、現在を過去のものとして、また過去を現在のものとしてねつ造するなんらかのメカニズムにもとづいており、現在と過去との遡及的取り違えなのであると思う。現在の体験の諸表象の一部が、過去に記憶された表象群のなかに位置づけられ、あらためて現在の体験と対照されることによって、それがあたかも過去に起こったことであるように感じられること。 但し、体験そのものより、体験の裏にある情動のレベルにおける記憶が、dejavuには大きく関わっていると思われる。例えばドラック常習者が使用をやめた後に起こすフラッシュバックは、dejavuのメカニズムと関係があるものとも思われる。トラウマの問題、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のメカニズムもこれと関係しているのではないだろうか。
1 自民党に入れた無党派層には「勝ったはいいけどここまでかつ必要は無かったのでは・・」と微妙に思っている人もいるのではないか。都市部での自民党の圧勝は、ごく普通にきちんと仕事をしているようなサラリーマンやOLの多くが今回は自民党に投票したという結果である。 小泉首相が構成した争点(「郵政民営化賛成なら自民党」)や、「造反議員」への対処は、「シンプルな首尾一貫性」をもっていた。多くの情報を複合的に判断することは時間もかかるし面倒である。人は簡単な選択を好むものだ。従って、単純さを構成すること自体は、票を入れてもらう政党として当たり前の仕事ではあるのだ。 そのシンプルさはもちろん何かを捨象しているしなにかを隠蔽しているはずである。「それだけじゃないだろう」という欠如に対する知覚が立ち上がり、場合によっては、「うさんくささ」やら「いんちきっぽさ」を嗅ぎとれたりするものだ。 しかし、今回の選挙では、そういった欠如に対する知覚の起動は多くの人には起こらなかった。あるいは、「単純すぎてなんか足らないけど、それはそれでかまわない」と思ったと考えるべきなのだろうか。いずれにせよ、自民党から与えられたメッセージに対する違和が、他党への投票を選択させるには至らせなかった、ということは言えるであろう。複雑さを捨象しての「シンプルな首尾一貫性」を、小泉人気が支えたといったところか。 2 自民党は新自由主義的(あるいは新保守主義的)な「小さな政府」の実現を目指しているようである。郵政事業はそれ自体、公務員の固まりによって行われているわけだし、悪名高き土木系公共投資の財源であり、国債の受け入れによって国の借金財政を支えているのが郵貯だから、これを民営化して、国主導の公共事業とかをどんどん止めていく、というわけだ。 実は民主党もどっちかといえば「小さな政府」を目指している政党である。 政府が様々な公共事業をイニシアチブをもって行っていくというタイプの「大きな政府」の社会民主主義的な政策を掲げているのは社民党と共産党である。自民党と民主党の差は、小さな政府を実現するための力点をどこに置くか、という違いとなるだろう。これまでプロ民主党だった田中康夫が立ち上げた新党日本は、民主党とは違い、「大きな政府」指向という点に求められるだろう。 3 新自由主義か社会民主主義かという二つの選択肢。これはアングロサクソン型と欧州大陸型という二つの選択肢とも言われる。 おもしろいことに新自由主義(新保守主義)のほうが「ラディカル」に見える。それはとにかく肥大した行政機能を「ぶっ壊す」改革路線を全面に打ち出すからである。一方社会民主主義のほうは、保守的に見えるのである。というのは、そもそもこれまでの日本がケインズ主義的で社会民主主義的だったからである。郵政の民営化という争点の場合、明らかに賛成派のが革新的で改革路線に見えるのだ。 民営化的ぶっ壊しの前では、支出の切り詰めといった堅実なしかし真っ当な努力は、あまりにも地味である。 4 米国は新自由主義で小さな政府を目指していると言われるが、米国の国家予算に占める軍事費は、40兆円を超えており、日本の国家予算の半分を占める。実は、米国は小さな政府にはなり得ない。国家が軍需産業と大きく繋がっており、公共事業=軍需産業が国の経済全体に与える影響も無視できないものとなっているからである。言ってみれば、米国は「軍国主義」なのである。それは日本が建築土木系の公共事業大国であるのと同様だ。 仮に、米国が小さな政治であるとするならば、それは福祉・保険といった公共事業を国が行わないという理由によるものだ。 5 「小さな政府」幻想に気づくこと。 今日本は、この幻想のシナリオに乗ってどこかに向かおうとしているように思われる。 「否定の否定」が必要なのである。
選挙だし、一応考えてみた。 郵政民営化が、日本の赤字財政を立て直すことに結びつくのかどうかということであれば、それは全く不確かだと思えてしかたがないのである。 多分、郵貯/簡保の資金が民間に流れるようになる、というお話(「官から民へ」論)はどうもペテンに思えるのである。 なぜならば、根本である国家予算自体が縮小しない限りは、その財源として郵貯/簡保の資金に頼らざるを得ないわけですから、民営化しようがどうしようが、無理矢理にでも国は、郵貯/簡保株式会社(?)に国債を受け入れてもらうことになるでしょうよ。 小さな政府を実現するために郵政民営化を行うのだ、という説明は、不確実な因果関係を恣意的に措定した曖昧な理屈に思えるのである。 年に30兆円も借金している状態(赤字国債)は、年に17−8兆円も借金を返している自転車操業(ちゅうか追いついてないんだから自転車操業以下なわけだけど)は、だれがみてもおかしいんだから、国家予算自体を切り詰めることがプライマリーマターなのではないでしょうか。 だから、なんで郵政民営化が「本丸」なんだか、ちっとも理解できないのである。 私は、基本的には、財投って、正しく使われれば悪いシステムではないと思う。ちょっと奇異に聞こえるかもしれないが、日本は非常に特殊な"社会民主主義"的な資金運用のシステムを有しているのである。国民は郵貯に信頼をおいており、財投のシステムを通じて、公共的な分野に「投資」を行っている、と私は考える。ただし、その素晴らしいシステムは、ホースシットな道路公団等へのお金の流れに代表されるようにまともに運用されているとは言い難い。私は適切な対象に適切な規模でよい財投が行われることを期待したいのだ。 (財投の規模は小さくされなければ、そのうち国際的な批判も被るようになるだろう)。 もちろん、赤字国債引き受けってのが財投の大きな柱じゃあ筋が悪すぎる。郵政民営化に知恵をしぼるより、国家予算自体を縮めること、そっちのが先決で、本筋じゃんかよ、と思えてしかたが無いのである。 もちろん国家予算を縮小することは難しい。しかしそれを実現するのは政治の力しかないだろう。もちろん郵政民営化はそのための何らかの足しにはなるだろうが、それによる弊害も考慮に入れなくてはならないと思う。無駄金を計上しないこと。これが筋。 それが出来るのは政治家なのだが・・・・。もちろん、ブルシットな族議員は全員銃殺に処するべきである。 罵詈雑言御容赦。
インターネットは、突如としてイデオロギー作用大爆発の場所になる。可能性とともに危険な場所なのである。 ジジェク(スロヴェニア人の批評家、『イデオロギーの崇高な対象』の著者)が日本人だったら、きっと大喜びするであろうようなネタである。 反中国的感情の拡大再生産の場となっている。見事である。 中国の野菜の農薬残留や中国の高度成長にともなう環境汚染といった、既にある意味、常識的な問題は、こういうかたちで言語化され一般化され、中国に対する蔑視的イメージが固定・拡大していく。 ジジェクが面白いのは、単に差別的なイメージ形成の記号論的な操作のメカニズムを語るに止まらず、どうしてそうしたイメージが我々に強く「響く」のかについての説明、さらには、そうしたイメージに対処する主体のあり方にまで踏み込んでいることだ。 ジジェクはユダヤ人を例にとって語る。 ”ユダヤ人は明らかに社会的症候、すなわち、内在的な社会的敵対性が、肯定的な形態をとり社会の表面に噴出してくる点、社会が「うまく機能せず」、社会の機構が「きしんでいる」ことが明らかになる点である。(コーポラティズム的な)空想の枠組みを通してみれば、「ユダヤ人」は、社会的構築物の混乱・崩壊・腐敗を外部から持ち込む侵入者に見える。つまり、それを排除すればわれわれが秩序・安定・同一性を回復できるような、外的な積極的原因のように見える。だが、「空想を生き抜く」ことによって、われわれは症候と同一化しなければならない。「ユダヤ人」に帰せられている所属性の中に、われわれの社会システムそのものの必然的産物を見てとらねばならない。「ユダヤ人」に帰せられている「過剰」の中に、われわれ自身についての真実を見てとらねばならない。” (スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』河出書房新社、119-120頁。) さて、2005/8/3 (Wed)のデンクロウ氏の日記には、感心させられた。 http://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=magottfield 「北朝鮮」に帰せられている「過剰」の中に、われわれ自身についての真実を見事に見とっている。
先輩達の仲間入りをしようとして、まだぼんやりしてた周りの仲間を足げにして、そいつらをうまいこと利用して、偉くなった気になった。 そしたら先輩から仲間をいじめるな!と偉ぶられたので腹がたって、「てめえだってにたようなことしてるじゃねーかえらそーな口きくんじゃねーよ」って逆らったて楯ついたんだけど、結局先輩にはかなわなくて、こてんぱんにやられて降参して、それでそのあと先輩の後見もあって一生懸命がんばってそれなりに金持ちになった。 そいつは、またちょっと自信を回復して、まわりの仲間へ金を配り歩いたりして尊敬を得たとさえ思っていたんだけど、実は昔足げにしたことを未だに根に持たれていて憎まれているんだ、いまだに。まわりの周りの仲間からはにはきちんと筋を通していない、ちゃんと反省していない、だからどうも信用できねえ、なんて思われちゃってる。信用取り戻すのは大変だからねえ。 似たような奴が、別の町にもいるんだけど、そいつはもうすっかり周りの奴らと仲直りしてうまくやってる。だけど、こいつは未だに憎まれてるんだ。あんなに金使ったのにねえ・・・。 だれのことか分かると思うけど。かわいそうな奴だよ。ちゅうか間抜けというべきかもしれないな。 周りのやつらも、昔とは違って力を付けてきているから、そいつはそのうち抜かれちゃうかもしれないし、そうしたらいい笑い者だわ。 かっちょわりい見本みたいな奴。
夜寝るとき、どうしたら世の中がよくなるだろうか、と考える。 もちろんこれは、すぐ眠りに落ちるための手段の一つである。眠りに落ちながら考える(というか想う)には最高のテーマの一つだと思う。答えは極めて簡単であって、かつ極めて難しい。だから焦点がぼやけてきて、そのうち意識を失うという寸法である。 グローバルに考えればキリがない、かといって、ドメスティックにのみ絞ってみてみたところで、ことは依然として複雑である。 とりあえず身近なところから世の中がよくないと想われる理由を拾ってみよう。すくなくとも中央線があれほど止まらない世の中が望ましい・・、もちろん毎日あれほど通勤電車が混まない世の中が望ましい・・・、トマトは何故一個100円もするのか・・・、あんなに綺麗にパックして得る必要はないだろう・・、うんぬんかんぬん・・。 それは、日本の「豊かさ」に関わる問題ではないか。日本とは、それ自体が日本の豊かさを維持し拡大していく装置(システム)として構築されており、また現在も自らをそうした装置として再生産していると考えてみたくなる。 いうまでもなく、豊かさとは必ずしもラブ&ハピネスとは一致しない。 装置は、個別のラブ&ハピネスとは関係なく自己の拡大再生産を目ざすであろう。装置の世界観は常にグロスの世界観であり、ミクロ(個)はグロスを達成するためのミクロ(個)としてしか分節されない、あるいは現象さえしないのだ。 かつて日本には高度経済成長期というものがあった。私の少年時代である。その後、私の青年時代には、高度消費社会が到来したと言われた。日本は経済成長を達成し、豊かになり中流意識を一億数千万の人々全てが感じているといわれた。しかし同時にこの時期は少品種大量生産から多品種少量生産への移行の時期でもあった、消費者社会において人の趣味は多様化し、豊かさの基準が変わったのだ。人は他人と同じでは満足できなくなり、人より楽しめないと満足しなくなり、そうした個性化(消費者主権?)が人に、新たな幸福と共に不幸をもたらすことになる。人はグロスのためのミクロ(個)を、ミクロ(個)のためのグロスと誤認したのである。しかし装置はやはり装置に過ぎなかったのである。ミクロが装置においても消費という観点において分節されてしまったがゆえの矛盾及び不幸? いうまでもなく、消費者会の美しい個は、バブル期においては、狂ったように踊らされる個に変容するであろう。 時代はうつりかわる。しかし今度は、悪いことに、人身事故で電車がストップする回数が増えだしたのである。狂ったように踊っていた個は、今度は狂ったように電車に飛び込む個にかわってしまったのだろうか。 ドイツで日本の通勤ラッシュがCMに使われていたのを観たことがある。日本人はあれを毎日やっている変わった人間ということなのだろう。しかし日本人は決してさほど倒錯趣味なわけではなく、ごく普通の人間なのだ。日本人はざまざまなことを犠牲にして(目をつぶって)、装置を作動させ続けているのである。 グロスの豊かさとミクロなラブ&ハピネスは必ずしも一致しないということだ。もちろん、こうした日本の世の中の悪さは、まだ幸せなほうなのだろうが。 この辺で眠りに落ちる毎日。
最近よく、昔買ったクラシックのレコードを聴いている。CDも聴くのだが、あまり音が良くないのだ。多分デジタルをアナログに変換するコンバータがチャチいのである。2万円のユニバーサルデッキだからまあ文句は言えない。 アナログレコードをターンテーブルで再生した音のほうが明らかに鮮明だ。ゴミや傷はノイズを発生させるが、慣れればあんまり気にならないものだ。 多分、クラシックやジャズは、レコードのがCDより、安いお金でいい音が聴けるんじゃないかな、と思う(いや、ロックだって演歌だってそうだろう)。コストパフォーマンスを考えるなら、多分5万のCDデッキを買うより、5万でターンテーブルと針とカートリッジを買ったほうがいいんじゃないかな、などとも思った。どうだろうか?試してみないと何ともいえないけど・・。 ここでいういい音とは、音のキメが細かいということ。というか、音のザラザラ感だのなめらか感だの、細かい音の襞が聞こえてくるといいうか、存在感のある音というか、そう言うものだ。うちの安いCD/DVDデッキの音は、細くて奥に引っ込こんだ音で、音のディテールが観察しづらい音になっちゃうのだ。だから、どうしても、ちょっとボリューム上げ気味になってしまう。音量でそうしたキメ細かさをカバーしようしちゃうのである。 まあ、BGMで聴きながすぶんには音質的な部分はどうでもいいんだけど。でも「もうちょっと積極的なBGM視聴」くらいになると、レコードのがいいな、多分。 結局のところ、オーディオ関係って、安かろう悪かろう、高かろう良かろうの世界なのである。だから、予算及びコストパフォーマンスという観点が最も重要で、つまりは「やりくりママの世界」じゃんこれって。
Trackbackの機能を使いたいと思っていて、試してみたらなんとか使えるようになった。 人のサイトに勝手に自分の記事をリンクしている感じがちょっとずーずーしいような気がちょっとするが、それ以上に、この相互に記事を参照できるシステムはなかなか面白いと思う。 ブログ同士だと有効だが、相手が日記だとそう言うわけにも行かないのは、ちょっと残念。ブログの方のが、機能的にかなり進んでるわけですね。使い道もいろいろって感じですな。 勉強になりまする。
あけましておめでとうございます。 本年も音楽関連のいろんなことを書いていきたいとおもっておりまする。 私はこの日記で他のバンドやプレイヤについていろいろ書くこともありますが、実はよい点を評価するかたちで書くのって、結構難しいです。例えば評価が確定している過去のアーティストのその一般的な評価とは異なる部分に良さを読み込むこととか、不当に低い評価を被っている過去のアーティストを評価することはやりやすいのですが、現在進行形の多様な可能性をもった対象をどう評価するか、ってのは難しい、と思うのです。 というのは、あるよい点を言語化したとたん、他のよい部分とかは言語化されないことになってしまい、自分のなかで対象の良さを限定することになってしまうと思い躊躇してしまうのです。いろんな良さがあるし、またそれを的確にかつ豊かに見つけ出し、書き記すことは、素晴らしいことなのですが、難しい。 一方そこをどうかしたらもっと良くなるだろう、といったことは書きやすい。基本的にポジティブな視点からだし。 でも、考えてみれば、自分の中で対象をの良さを限定してしまう、のではなく、限定した対象の良さを書くことによって、自分の可能性を限定しているように思えてしまうんでしょうね。多分貧乏症なのですな。 ことしはもっとよい点についてどしどし勇気を持って書けるようになりたいです。
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