映画の感想も載せたりしていきます 

マノエル・ド・オリヴェイラ監督の『永遠の語らい』を観る。この監督の映画はすごいと話題は聴いていたのだが、機会なく、今回が初めての鑑賞。いや、すごかった。映画は、最後のシーンをまって、物語が遡及的に極めて明快な主題を伴ったかたちで構成される仕組みとなっている。つまり、それまでのシーンの意味は、明示的なものであれ、暗示的なものであれ、全て、最後のシーンにより、極めて明確に一つに決定されることになる。あまりにもその決定力が強力なので、鑑賞者は唖然とするであろう。筋についっては一切かかないけど、ここまで書いたことで、既にある種のネタバレになっちゃってるかも知れない。周りでみていた数人の鑑賞者は、前半はかなり良い気持ちで寝ていた。テンポのぬるさやドラマツルギーのなさにくじけないで、ゆったりと前半も楽しんで欲しいところだ。そして、この前半のテンポが、この映画にとって必須で不可避なものであることも確かなのである。

[2004/05/28 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

映画『永遠のモータウン』(1) 

話題の『永遠のモータウン』を観ました。
ドキュメンタリーがオスカーとって話題になったり、カンヌで大賞とったりする時代です。(といってもどっちもマイケル・ムーアだったりするわけですが)。素晴らしいドキュメンタリーがどんどん作られて欲しいものであります。そしてこの映画は、まさに素晴らしいドキュメンタリーとなっていると思います。モータウンという会社とその傘下の有名なアーティスト達を影で支えたミュージシャン達をフューチャーした映画です。なので、実は『永遠のモータウン』という邦題には極めて違和感があります。Standing in the shadows of motownという原題にもっと忠実な邦題が欲しかったところです。栄光の影で忘れられた裏方をフューチャーした映画なのであります。モータウン自体をフューチャーした映画ではありません。そんなものはドキュメンタリーにするこたあ無いのです。そういえば最近はよくUチャンなんかでオールディーズのCD4枚組のテレビショッピングみたいなのやっていて、当時の風俗やらニュースの映像を流しながら当時の音楽をかけて良い気持ちにさせて、CDを売る、ってな具合なやつなんですが、疑似ドキュメンタリータッチというか、ステレオタイプのありきたりのナレーションつけてやらしいのなんのってありゃしないのですが、まあそれはともかくとして(それをけっこう観ている俺、ということはさておいて)、この『永遠のモータウン』は、単純に音楽が楽しめるところ、ドキュメンタリーでありながら、映像と音のエンターテイメントになっているところがよろしい。扱っているのがドキュメンタリー映画として良いテーマなのです。

以下、この映画で私が興味を持ったところ(考えさせられたもの)等。

[2004/05/15 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

映画『永遠のモータウン』(2) 

基本的にモータウンのサウンドとは、モータウンがデトロイトにあった60年代に確立されたものであり、西海岸に本拠地を移してからのモータウンサウンドは、既にオリジナルに対するコピーのようなものかも知れないということ。単純にそう割り切ってそう言うことはできないでしょうが、狭義のモータウンサウンドとは、デトロイトで録音されたものという理解も出来るかもしれません。もちろん60年代にもサウンドは徐々に時代の流れに乗って変容し、ワウワウギターを利用したサイケなソウルなんてのも作られるようになるわけで、モータウンの音とは一つだけというよりは幾つかの典型的なサウンドとして言い表すことができるかもしれません。初めてミュージシャンの名前がレコードに記されたマービン・ゲイのWhatユs goinユ onが、デトロイトでの最後の作品だったというのはなかなか象徴的ですね。それは、匿名的な集団による音楽制作の時代の終焉を象徴している作品なのかもしれません。

もちろんそうしたサウンドの要となっているのは、ジェームス・ジェイマソンのベースで、彼無しにはモータウンのサウンドはあり得なかったわけです。もっともジェームス・ジェイマソンのベースは既に好事家にとっては有名だったわけですが(この映画と同じ制作者による素晴らしい本も出版されています)、彼に止まらずに、他のスタジオミュージシャン仲間たちーファンク・ブラザーズと呼ばれるーが、この映画では大きくフューチャーされています。これは本当にうれしいし、ためになることです。例えばこのドキュメンタリーの中でピストル・アレンのドラムは、陽気な爺さんとなってしまっていても、やはりモータウンのあの音であり、彼が叩き分け説明する、いわゆるモータウン・ピックアップなどとも呼ばれる曲の始まりに置かれるドラムのフレーズの映像&音に、単純にうわーっと反応しないものは、ソウル好きとは言えないとえ言えるでしょう。まあ、とにかくそうした映像と音がこの映画には詰まりまくっているのです。ピストルアレンといえば、Ainユt no Mountainでのツインドラムのアンサンブルで、リムを使ったプレイをしていたのもすごく印象的でした。ほんのちょっとした「小細工」がモータウンサウンドを生み出すのですね。例えば、タンバリンの多様だってそうです。ビブラフォンなんかも良い味だしてるんですね、モータウンサウンドでは。

[2004/05/15 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

映画『永遠のモータウン』(3) 

モータウンの音楽は一定の規模をもった制作集団による産物です。この映画ではスタジオミュージシャンがフューチャーされていますが、裏方的な存在としては、アレンジャーもソングライターも重要でしょうし、労働者側のみならず、この生産プロセスを維持し拡大的発展をマネージした経営側も考えておかなくてはならないでしょう。モータウンは基本的には流行歌を生産するファクトリーなのであり、成功(この場合大ヒット)の影に苦労あり、の歴史なんですね。大衆音楽とはこうした産業的産物であること、そしてそうした産業における匿名的な作り手の中に、何故か燦然と輝いていて、どうしても固有名詞が浮かび上がらざるを得ないようなな存在があるのだということを明確かつ正しい意図の下に擁護していくことは重要だと思います。

特に、マージナルなもの、レアもの発掘に流れた90年代なやり方、中心を脱中心化して周縁的なものにフォーカスして異なる歴史を語るというやり方と言うよりは、むしろ、コアなものを巡る再解釈、コアなものを斜めから見ての再評価みたいなやり方。モータウンという燦然と光り輝くコアの再解釈。長い間かけて作られた映画ですが、今、まさに意義を持つ映画ではないか、と思うのです。邦題とは全く裏腹に、永遠ではないモータウン、限定的なある時期に特定の条件の下で輝いていたモータウン、それが本映画によって認識出来ると思います。

こうしたコアの再評価は、特に若い世代の人にとって意味を持つと思います。というのは、若い世代の人って、案外、モータウン、とかアトランティック、とかスタックスといった歴史上重要かつ基本的な固有名詞を中心として音楽を捉えていないから。ヒップホップ小僧は言うまでもなく、ネタから過去の音源にアプローチしているから、「大きな固有名詞」によるスタンダードなものの知識が抜けていたりする。レアグルーブもののブームの時代にソウル音楽(フリーソウル)にふれた人々にも、案外同様のことが言えるのかも(だからダメ、というわけではないのですが)。というわけで、過去の歴史の中でそれなりに認知され、オーソライズされてきた音楽を知り、かつただ知るに止まらず、新しい見方、知見をも採りいれるという意味で、上述のようなコアなものを斜めから見るという行き方は、今まさに、重要であると思うのです。

[2004/05/15 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

ライブ評(長谷川朗カルテット)(1) 

立川のハーフトーンというライブハウスで、長谷川朗カルテットを聴く。メンバーは長谷川朗氏(TS)、百々徹(どどとおる)氏(Pf)、荒巻茂生氏(WB)、中村雄二郎氏(Dr)。

伝統的な楽器編成のジャズのカルテットで、久しぶりにこの手のジャズを聴いた。ピアノやウッドベースが用いられれているこうした編成での演奏はよく「アコースティックジャズ」と表現されたりもするのだが(多分日本的な表現なんじゃないかなあ、どうだろうか)、もちろんPAは利用。80年代に厚生年金ホール(だったと思う)でキースジャレットのトリオを聴いたことがあり、PAによるピアノの音の拡声が控えめで、ディジョネットの音がでかくなると(すぐでかくなるのである)ピアノが聞こえずらくて難渋した覚えがある。レコードのような「アコースティック」なバランスをライブで期待することは案外難しいのである。小さいライブハウスでは、ドラムに近いとドラムばかり聞こえてしまうだろうし、場所によってもいろいろである。

今回のライブでもドラムががーっと行くところではピアノとベースの音が聴き取り辛かった。こういうのは客としては辛いところだ。ただ、もちろんドラムの音量が上がることは全然悪いことではないのである。「ハコ伴」のように小さい音量でショボいジャズをやり続けていても仕方ないのだ。ダイナミズムは「アコースティック」なジャズにとって、いやこういうフォーマットだからこそ、重要なのだ。そのときアコースティックピアノやウッドベースの音量をオーディエンスに対し、いかにバランス良く、しかも生の音らしく確保していくかというのは、重要な問題となると思われる。このへんは音楽的傾向よPAのエンジニアリングのバランス(塩梅)マターなのだが、オーディエンスの音楽に対する印象はその辺の塩梅で大きく変わってしまうこともあり得ると思うのである。(一応書いておくけど、ライブハウス自体は非常にアットホームな感じで好感を受けた。来ているお客さんも、演奏も行うようなタイプの音楽好きの方々も多かったようで、雰囲気が良かったと思う。)

このバンドは音楽のダイナミズムについては自覚的なのだろうか、ドラム&ベースが排される編成が採用されたバラードもあり、そうした曲の演奏では、繊細かつ慎重に選ばれた和声がクリアに聞き取れる美しいピアノの伴奏を堪能することができた。

[2004/05/12 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

ライブ評(長谷川朗カルテット)(2) 

ピアニストの百々氏は、このライブでは、繊細でモダンなコード感覚と遅い曲におけるルバート的なソロのプレイに目を見張るものがあったと思う。それからトーンの感じがちょっとくぐもった感じ(っていうのかな、上手く表現できないんだけど)がして面白いと思った。ニューオリンズ調のドラミングの曲なんかでも、8分音符に微妙なレイドバック感(一般にノリノリのニューオリンズ系のビートの上では観られないようなジャジーな音符ののせ方だと思う)があって、それがトーンの色合いと同時に耳に残った。細かい点にまで、気配りが強く行き届いている感じがした。

サックス&リーダーの長谷川氏は、豊かな倍音を排したジャズ的なトーンの持ち主で、サウンド的リッチさの否定については、途中で店のPAのリバーブを切ってしまいもする徹底ぶりを発揮し、そのへんのある種の「ジャズらしさ」に対する強いこだわりが伺い知れた(と思うのですが)。音の「悪さ(豊かでない倍音構成)」や音程の微妙さが音楽的な良さへと転化するジャズ的魔術を意識的に志向するタイプであるともいるかも。この辺は「典型的なもの」と「個性」とのバランスが極めて微妙で、例えばウェイン・ショーターは現代におけるその最高の成功例であると思われる。

こういった要素は、与えられたコード進行に適合するアドリブラインを吹くといったことと同等あるいはそれ以上に重要だと思うのだが、そうしたジャズ的な部分が語られる際、多くの場合ミュージシャンの「個性」とか「クセ」とかに還元されておしまい、の場合が多いように思う。しかし実はそうした「ジャズらしさ」を維持、強化するために、ミュージシャンは様々な努力や工夫を行っているもの。要するに、そうした部分への強いこだわりを朗氏から感じ、好感した。魔術には方法(タネ)があるのだ。だたしサックスの門外漢の私にはタネは全然わからないのだが。

[2004/05/12 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

ライブ評(長谷川朗カルテット)(3) 

若干25才のドラマー中村氏は、なかなか威勢の良い、しかも素晴らしいテクニックのドラミング。客席からは音量的手数的にtoo muchとも思えるアプローチもあったように思うが、その辺はライブハウスの諸条件の問題もあるし、前述のように渋く叩いているだけじゃ面白くないのである。スイング系のみならず、他のリズム、新しいタイプのリズムも聴いてみたいと思った。

ベースの荒巻氏。前半特に、ピアノの伴奏の際に、ピアノのフレーズの流れが切れるとうなり声をあげて反応(?)しており、それが非常に興味深かった。ピアノのラインを良く聴いているという印象を持った。

さてライブ自体は2ステージ。ワンステージ目は楽曲的にもチャレンジングなオリジナル中心(サックス&ピアノのデュオもあったけど)である種の堅さが場を支配していたが、ゆったりとインターバルをとって場が和んだ後半は、選曲という側面からも、前半よりはくだけた感じで、より楽しめるものとなった感じがした。良い気持ちで家路につくことが出来ました。

[2004/05/12 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

meu bem quereのライブ(1) 

鈴木信吾氏、鈴木潤氏、森孝人氏、アレックス氏によるmeu bem quereというブラジル音楽を演奏するバンドを聴きに。

演奏されたのは、インストものと、chieさんというボーカリストが入っての歌もの。

さて、1曲目がアジムスというかなり好きなブラジルのフュージョンバンドのレパートリーだったので、いきなり好感。

ドラムがまさしくブラジリアンなドラムなので、当たり前のことだけど、良い感じでブラジル音楽的なのである。いやはやバンドにおいてドラムってのは恐ろしいパートであることをあらためて(一万回目くらいでしょうか)痛感。そして、ブラジル的であろうという基本的なコンセンサスが自然に結合しており、そういう演奏を支える意図の流れの方向性が良い感じ。どうやらリハ不足で細かいところのミスもあったけど、しっかりした技術をもったミュージシャン達による意図をもった演奏なんで、ミスなんか些細な問題である。その手のミスは興味の対象外。演奏中のそれぞれのプレイヤのアプローチやソロ、そして全体としてのグルーブ、さらにはやはり全体としてのサウンドってのが重要だと思うのである。

ボーカルものでは、実は楽曲的にもアレンジ的にかなりアクが強いと思われるエリス・レジーナの有名なレパートリーをかなり原曲に忠実な感じに演奏しているのは、オリジナルを知っている耳にとっては、安易といえば安易に聞こえるものである。従って、そういった曲では、私的には、途中の森氏及び鈴木潤氏によるソロパートがもっとも楽しめる、ということになる。また、各プレイヤのアプローチにみられるオリジナルとの差とかオリジナル的演奏をいかに自分なりに応用・解釈・発展させて演奏しているか、というあたりがポイントともなる。そういう観点からは、キーボードの潤氏とギターの森氏はなかなかの強者で、ブラジル的な世界(あるいは原曲的なイメージ)を構築しつつ、しかししっかり自分の色を出すこともできる演奏家。森君はソロでは弾き方(あるいはピックや指)を使い分けていたのか、音の雰囲気にいろいろ変化を持たせていたように思った。その辺の細かい配慮は興味深かった。潤氏は、右手と左手のコンビネーションによるリズミックなバッキングがドライブ感があって格好良かったと思う。

[2004/05/10 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

meu bem quereのライブ(2) 

信吾氏も同様の能力を有しているプレイヤで、北米系の黒人音楽のノウハウをベースとしつつも、ブラジリアンな2ビートのグルーブの基本をきちっと構成しようとしている感じがよかった。ブラジリアンなドラムとともに、さらに各人の色や臭いが感じられ、そして、それがバンドの色にもなっているようなバンドに、どんどんなっていって欲しいと思った。

リーダーのベースの信吾氏と話す機会があったのだが、このバンドはいま立ち上がったばかりのようで、今後はオリジナルをやりたいとも述べられていたので、その辺に関しても楽しみである。カバーを演奏する際にも、良い感じで時間を積み重ねれば、だんだんバンドとしての色が出てくることも、また間違いないことだろう、と思う。

それから小さいハコだったためかドラムがだいぶ抑えめに叩いていたこともあると思うのだが、グルーブ感というかドライブ感をもっと味わいたかった。この辺は、ベースがボトムからグルーブやドライブを意識的にリードして(盛り上げて)いくということもあってよいかな、とも思った。一曲一曲が短かったせいもあるかもしれない。ダンス音楽的なグルーブの渦がどんどん広がっていくようなパートが、私的にはもっともっと欲しいところだ。それができるメンツなので。

でも一方で、例えば後半の一曲目のインストでの曲の終わり際のピアニシモ的に音が小さくなったあたりは良い気持ちだった。小さい音の微妙なアンサンブルもばっちりのバンドなのである。行くところは大胆に行って、抑えるところも大胆に抑える。その辺は、リハや本番を重ねていけば解決する類のバンドとしての経年の問題なのかもしれない。

あと、私的には、インストでダンス音楽的なアプローチとジャズ的なアプローチがともに感じられる音楽をもっとやって欲しかったと思う。ボーカルは必ずしも必要ない、とも思った。あるいはボーカルがもっとジャズ的なアプローチとかグルーブをオリジネートする意図をもって曲に乗っていく、あるいは曲をリードしていくような感じのアプローチをとるといいだろうな、と思った。

いずれにせよ、すがすがしいよいバンドだったと思う。

[2004/05/10 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)