追悼 

先日ドイツの時に一緒にやっていたボーカルのデイビッドから電話があって、パーカッションのカオクディが死んだことを告げられた。驚いたが、同時にカオクディの死は、それがあまりにも早く訪れたとしても決して不自然ではないことのようにも感じたのだ。カオクディはスペシャルな人間だったからだと思う。誤解を恐れずに言えば、彼は神に近いところに位置していた人間だったのだとも思う。なにか天使的なところがある男だった、とも思う。

現実的なことを言えば、彼は滞在許可の獲得等社会的な身分の保障に格闘していたし、かつてのようなおいしい仕事が少なくなり苦しい生活を送ってもいたのだ。そんな中での病気だったのであり、神に近いとか天使的だなんていうのは、現実を無視したイデオロギー的言辞なんだけど、それにもかかわらず、そういうことを言いたいのは、彼と一緒に演奏して私は得たものがたくさんあったからなのだ。ある種の降臨するグルーブを、彼を媒介として感じることがあったからだ。

断っておくが、それは決して神秘的なものではなく、むしろ唯物論的なものなのだ。それは彼の肉体を介することによって具現したのだ。グルーブのモメディアモとしてのカオクディを、私は天使といいたいし、神に近いともいいたいのだ。さようなら、ありがとうカオクディ。

[2004/11/26 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

コンサル 

満員電車内での習慣だった音楽鑑賞を最近は殆どしていない。聴きたいレコードのコレクションが無い、と感じる今日この頃なのである。試聴が殆どできない日本で苦労して無駄なお金を払って音源を買う努力をするのならば、自分で自分の聴きたい音楽を作った方がいいじゃないか、と切に(拙に?)思う。あるいは「これこれこういう感じの音楽が聴きたいんだけど」って言うと、適切にコンサルしてくれる人がいると有り難い。自分の音楽作りにとっても有り難い。

[2004/11/25 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

深く? 

深く、と昨日書いたが、深くってどういうことだろうか?音楽を深く聴くってのは?音は深いところにあるわけではない、それ(ら)は白日の下に晒されており、全てが赤裸々な状態なのだ。そこには一切の秘密、秘蹟はない。音は音なのだ。従って、深さなんてものはない。それはただ、うつろうのみであり、深度は音楽とは一切関係ないのだ。

人が転落したJR新宿駅にけたたましく響くブザー音。うつろいを忘れたようにただ鳴り響き続けるあの音にさえ、深さはない。

[2004/11/24 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

発表会 

林田氏のお誘いで、鶴野美香さんのお弟子さんの発表会で演奏。ドラムは天倉氏、ギターは森氏、ボーカルみともさん。

お弟子さんの演奏が興味深かった。参照元がある演奏より、中途半端にできる演奏より、ただプレイをすることが精一杯であるような音が面白いのである。ディシプリンによって矯正されていない音列がそこにあり、その音列が強烈なのである。

こなれたプレイからは、磨かれたプレイからは何かが失われてしまう場合がある。それはディシプリンによってレギュレートされていない原-身体的強度の次元だと思う。練習によってこりかたまってしまう手癖になる前の手癖、制度化された訛りやグルーブを会得する前の訛りやグルーブ。そしてなにより、磨かれるまえの音の肌触り。音楽的な洗練は、そうした次元の強度のまえでは無力だ。それは喜びや悲しみといった感情的なものではなく、もっと単なるエネルギーに近いもので、しかもそれは精製されたガソリンではなく、原油に近いものだ。そしてそれは単に単純ではなく、きわめて複雑でもあるのだが、非常に分かりやすいのだ。

音楽の聴き方にはいろいろあるのだ。深く音(音楽)が楽しめた日だった。

[2004/11/23 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

シンゴくん送別ジャム 

ベーシストの友人、鈴木信吾氏のフランス渡航送別会ジャムセッション@マイルスカフェ。
私はホストバンドのベーシスト的な位置付けで参加。楽しい時間を過ごす。信吾氏の(確か66年)ジャズベースを弾かせてもらうも、全然弾きこなせず。主宰は林田氏とみともたかこさん。

[2004/11/22 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

音楽の喜び 

話は変わるが、エンターテインするというのは、自分が楽しむのとは違うと思うのである。しかし一方で、自分が楽しんでなければ、人をエンターテインすることなんてできないのではないか、あるいは意味がないのではないか、と思いもするのだ。これはある種のジレンマだ。もちろん、自分がやって楽しい音楽が人を喜ばせもするならばどこにも問題は無いのだが。
基本的には、音楽をすることの喜びと、(音楽によって)「人を楽しませる」ことによって生み出される喜びとは、別のものなのだ。これをきちんと踏まえないと自分にとってのある種の音楽的発展は望めない、と今更のように気がつく(実は見当違いかも知れないけど)。

しかし、音楽自体(音楽をすること)の喜び、とは一体なんなんだろう?上では二つの喜びを分けてみたが、人を楽しませることによる喜びが、他者の存在を必要とする喜びであるならば、音楽自体(音楽をすること)の喜びは、他者を必要としない喜びなのか?もしそうだとしたら、その喜びとは単なる自己満足ということになるだろう。

音楽にまつわる二つの喜びを、すべて技術的な問題に還元してみたらどうだろう。どうやったら人を喜ばすことができるか、という目的志向・他者志向の考え方をとってみるのである。要は、他者を喜ばす技術として、音楽を捉える、ということだ。他者への奉仕、まさにサービスとしての音楽。

[2004/11/21 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

ライブ 

 おかけんさんのLuz Fonteの本番。結論的に言えば、私のプレイは全然良くなかったから、まずはおかけんさん(&おかけんさんのファン)には申し訳ない感じでいっぱいなのであるが、終わってしまったので仕方がない。今回は、私より年齢はずーっと低いけど、バックバンド等の経験ではわたしなんかより全然豊富なメンツが多かったと思う。そういうプレイヤには、やはりこうしたサポートについては一日の長が明らかにあるなあ、と痛感もした。キーボードの板倉氏が言っていた「曲を固める」というフレーズが印象に残った。この固める作業、固めたものをきちんと本番で出すという作業は、一般の仕事と近いものがあるとも思った。

 気持ち的な部分での取り組み方もすごく重要だなあ、と今さらのように思う。私は基本的につねにボケているわけであるが、日曜の午後のライブでホントにぼけてしまってはアカンのである、反省である。例えば、私は昼飯を食ったあとに仕事の電話をすると、朝より口調が滅茶苦茶になる傾向があって、それはなぜならば、眠くてぼけているからなのであるが、まあそういうことなのである。きちんと対応するということは、基本的な対応に関する知識(語彙や口の利き方等)と経験だと思うのだが、だとすると例えばバックバンドの演奏における基本的な姿勢についても同じことがいえるのではないか。

[2004/11/20 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

リハ 

Luz Fonte(岡田健次郎[おかけん]さんのソロユニット)の臨時サポートのリハ。

集まったメンツは、互いにほとんど初対面状態といっても良い状態だったのだが、譜面や音源の事前配布等、おかけんさんのダンドリが良く、進行もスムーズで私的にもリラックスして取り組めたリハだった。

おかけんさんは、大阪ベースのシンガーソングライターだが、各地でライブをやっている。スイートでほんわか切ない感じのオリジナルは、しかし実はかなり凝ったコード進行をもつものが多く、ぼけっとしていたり油断していると簡単に間違えてしまえちゃうのである。

リハは本日一回。明日は本番である。

[2004/11/19 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

茶のうまい究体でレコーディング 

稲城の究体スタジオで、オガタタケロウ氏の新アルバムに向けたレコーディング。新曲にベース録音第二弾である。第一弾は私の家でやったのだが、さすがに、エンジニア玉野氏を介してのプロトゥールスでの録音はらくちんである。おがたくんもプロトゥールス使いなので、私は完全に弾くだけで、ほんとらくちんである。本日のレコーディングは、素材提供的な趣のあるもので、基本的なパタンを弾くパートと暴れまくるパートがあり、あっという間に終了した感じだった。良い素材が提供できたかどうか、でも料理人は素晴らしいのでできあがりがどんなかんじになるのか、楽しみである。

ところで、この究体スタジオで供されるお茶がうまいのである。紅茶もうまいのである。たんなる玄米茶、たんなる日東紅茶なんであるが、なんだかしらんがうまいのである。もちろんリッチな味だとかそういうのではない。ただ、なんだかすんなりとくる味と香りがあるのだ。雰囲気の問題なのかもしれない。そのむかし昭和の40年代に飲んだお茶や紅茶の趣があるのか・・、よくわからんのだが、ともかくうまいのだ。うまく説明できないがうまいものはうまいのだから仕方ない。

[2004/11/17 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)

お宅訪問 

体調悪し。

午後気分がよくなったので、機材を長いあいだ預けていたギターの森孝人氏宅に。森氏宅は、昭和の香りのする小さな戸建てである。秋の午後の日差しを受け、三毛猫君が闊歩する4畳半の居間は実に快適な空間で、森氏らしさのこもった音源コレクションなどをちょこちょこつまみ聴きさせていただきつつ、ぼーっとしてしまう。

時間が止まってしまったような午後のひとときである。ミケランジェロ・アントニオー二の『さすらいのふたり』のラストの長回しがふっと思い出される。もちろん現実には人殺しもなにも起こらず、二人の男と一匹の三毛猫と、こてこてのソウルジャズがあるのみなのだが。

もっとも静止した時間なんてわずかなものだ。温度が下がってきているのに気づく。日が落ちつつある。時間の静止の最後の瞬間である。帰路につこうと外にでると、案の定、家路の母子のざわめきが時のまどろみに終止符を打つ。

しかし、子供は相変わらず、大人に対して意味不明の問いを発し続けている。子供の問いかけは循環する時間に属する。大人は子供の問いに宙づりにされたまま、薄笑いをうかべたり無視したり怒ってみたり問いかけ返してみたりしつつ、この循環する時間に耐えていく/慣れていくのである。

ところで10月30日のシーナバンドのライブでは、森氏のギターを中心としたモyou may sleepモという曲が演奏された。このギターが秀逸なのである。時のまどろみの住人、によるギタープレイなのである。

[2004/11/10 23:30] not yet categorized | TB(0) | CM(0)