4年前に書いた文章。当時どういうタイトルをつけたか忘却。多分「モダンジャズの抑圧装置」みたいなタイトルだったと思う。このころ、90年代的なクラブジャズ的パラダイムにうんざりしている気持ちー自分がその頃までやっていたくせにーがにじみ出ている文章。
バート・スターンという有名映画俳優の撮影等で有名な米国の商業カメラマンが50年代の終わりに撮った『真夏の夜のジャズ』っていう映画がある。アメリカ東海岸の避暑地として有名なニューポートで開催されているジャズフェスティバルの記録映画で、ジャズ好き、映画好きの人なら多分知ってるんじゃないだろうか。確か私は高校のときに多分深夜テレビかなんかでこれを始めて観たんじゃなかったかなあ、と思う。ジャズの魅力に取り付かれはじめたころだったため、一生懸命食い入るように観た記憶がある。もちろんアニタ・オデイ、セロニアス・モンク、チコ・ハミルトン、サッチモ等々のステージが観られるものの、音楽そのものはどうもこの映画では従属的な位置を占めているに過ぎず、印象的なのは、アーティストの立ち振る舞いを非音楽的な興味からのぞきこむカメラのまなざしと、音楽を聴いている聴衆の魅力的な姿なのである。ジャズ好きの当時の私としては、音楽的にはあまり楽しめない、あるいはインパクトを受けない映画だったけど、ファッショナブルで映像がカッコ良いいなあ、といった印象を受けた映画だった(いつだったか、タバコをくわえたチェリストが演奏するイメージを用いたピースライトというタバコのテレビCMがあったが、あれはこの映画のワンシーンのパクリである)。撮った張本人がアメリカでは一流の商業カメラマンと知って、ああ、なるほどなあ、という感じである。
この映画が印象に残っていたもう一つの理由は、ジャズについて当時本によって覚えた知識とは違ったことが描かれていたからである。それは、まず第一には、ジャズを聞きながら、観客が踊っているという映像である。そして第二には、ジャズフェスティバルでありながら、ロックンロールの創始者チャックベリーがカウントベイシーオーケストラ黄金時代のドラマー、パパ・ジョー・ジョーンスをバックに演奏している映像である。素直な私は当時、ジャズは、スイング時代のダンスのための音楽から観賞する芸術としての音楽へと移行発展をとげ、他のジャンルの商業音楽とは別の芸術音楽としてのジャズという枠組がきちんと確立されてきたのだという類のモノの本による知識をうのみにしていたのであり、そうした映像は私が持っていた先入観に居心地の悪い揺さぶりをかけたのであった。
当該作品のDVDリリースにあたり、米国の大手書店バーンズ&ノーブルがバート・スターンにインタビューを行っており、それが興味深い。彼はジャズは当時は別に好きではなかったこと、また、貧困な南部から生み出されたジャズが北部リッチ層の避暑地で演奏されるという矛盾(ジャズとニューポートの対比)に対する興味がこの映画を撮らせたとのことである。
なるほど、確かにそう言われてみれば全て納得できるものである。カメラが演奏者や歌手を捕らえるまなざしは、音楽をプレイする人間に対するリスペクトとは違ったなにかを含意しているように思える。変な例で恐縮であるが、例えば素人の私が冬季オリンピックの女子フィギュアスケートを見るとき、クワンの鼻はりっぱだなあとか、どうしたって演技者の容姿スタイルコスチューム立ち振る舞いなどに目がいってしまうように、この映画のカメラは演奏者をまなざすのである。その意味において、非ジャズファンであるスターンによるカメラのまなざしは、ニューポートに集まるリッチ層(ジャズをリスペクトするわけではない聴衆)の大多数のなまざしと大差ないものであろう。しかし、音楽プロパーでない人間にとって非音楽的な要素をカッコに入れることなんて出来ないし、スターンは音楽そのものを映画におさめたかったわけではなかったのである。カメラはまた北部のリッチ層を、モダンジャズで踊る聴衆、音楽を聴いていたり聴いていなかったりする聴衆をもまなざす。そこには、音楽を楽しんでいるというより、避暑を楽しんでいる人々が写される。音楽を楽しむことはあくまでも避暑を楽しむということの一部なのである。
一般にジャズの教科書では、スイングジャズからモダンジャズへの移行期に、ジャズはダンス音楽から観賞音楽へと変容したとされている。これは、端的に言いかえるならば、ダンス的要素の抑圧である。この映画はしかし、そうした抑圧とは全く関係ない聴衆が、モダンジャズ全盛期において堂々とまかり通っていたという様子を提示しているのであり、この点において「ジャズで踊る」といった90年代的スノッブの先取りを地で行く映像であり、映画的にいいのか悪いのかといったことはともかくとして(はっきりいって中味をほとんど忘れてしまっている)風俗的観点から興味深い映画である。
さて、話をジャズに戻すと、現状はといえばもはやこうしたダンス的要素の抑圧からはジャズは一切開放されたとみていいだろう。ウィントンマルサリスはニューオリンズに回帰し(ウィントンのバンドはコンサートホールでの演奏だろうけど)、マーカスミラーがダンス的要素を顕揚する発言を行っている。アメリカのジャズ雑誌JazzTimesでQ‐tipのアルバムがクローズアップされてる(記事は読んでないけど)現在、おしなべてジャズにおいて進行していることは、モダンジャズを顕揚していた言説が抑圧してきたものを解放する運動であり(反動的な動きも含んでいるものの)、これはさしあたって誠に良いことであると思う。
但し、である。モダンジャズ的言説の抑圧からの開放は、一方において注意深く見守る必要があるとも思いだしている。モダンジャズ的言説は抑圧装置としてジャズにおいて強く作用していたことは確かだが、この抑圧装置の作動が止まってしまっているいま、それではジャズに新たな多様性の目が現われてきているのだろうか。ことによると大衆音楽全般について言えると思われる「ダンス」か「癒し」かというある意味で貧困な目的論的二元論的文化論的な音楽の捉え方の方向に寄り添って行くのみならば、抑圧の解放が果たされたとしてもさしたる期待はできないのではないかと思うからである。実は、モダンという抑圧装置が今とは比べ物にならないくらい音をたてて作動していたよう思われる60年代のが、つまり、ダンスを忘れたを忘れたモダンジャズ的言説支配の時代のが、圧倒的に生産的であったということは多分厳然とした事実なのだということに、人はまずは自覚的であるべきなのかもしれない。
秋ですな。CDウォークマン不具合で、悔しいがIPodが欲しくなってきてしまった椎名です。このマーケットに商品間の競合って成立しているのでしょうか?IPodの一人勝ちっすよね。でも俺、パソコンはマックだしでItunes使ってるし、やはりIPodということになるんだよね、使い勝手からいっても。
日ハム優勝御目出度う。ついでに日本の加工肉のレヴェルも向上して頂ければ幸いです。
ライブ告知す。
2006/10/28 【SoulGardenVOL.10】
10月28日(土) 青山JANOJA http://www.janoja.net/
Charge:ADV 1000円 / DOOR 1200円 (D別)
RIO
R&Bにおける一人ウィーン少年合唱団とも言われ、また歌う一向一揆From Brooklyn!
武蔵野Guys&Dolls
→俺がはじめてライヴをするスタンダードJazzのバンドです。
全曲スタンダードでお送りします!
Emma(Vo)、鐵切 伝九郎(@武蔵野ファンク…Ts、司会)、永田雅代(Org)、ボボメキシコ(@武蔵野ファンク…Dr)、ボス(@武蔵野ファンク…Bs)
HardWorkin`BluesBand
→本格的なブルースからJazzテイストまで!
私はこれに参加しています。メンツは本Blogの左方あたり参照。
メンツはちょいわるオヤジ(苦笑)系が約8割。
ハイライトを飲む前途有望な青年が約2割。なかんじ。
なんか更新全然してないなあ。今は無き伝説のメルマガ(?)「電化ジャズ通信」に3年以上前に書いた文章なんだけど、とりあえずコピぺで場つなぎ(?)
「ロック」とジャズとギター
エレキギターというのはまずは「量」的な楽器であると私は思う。ポピュラーという量的概念を支えるもっとも量的な楽器。まずはエレキギタリスト人口の多さ−そうそう、日本の有名な音楽エンジニアリング向け雑誌の読者で一番多いのはエンジニアではなくてギタリストなんだそうである−。もちろん音量の問題もそうだ。そしてマス・オーディエンス。特にギターという楽器を巡って量的な欲望が立ち上がったこと、そしてその欲望が見事なまでに実体化した(マス音楽及び音量)ということは、多分20世紀の音楽にとってすごく決定的なことだったと思う。エレキギターを巡る量的なパワーは、20世紀の半ば過ぎから炸裂し、巨大でグローバルな音楽産業をも確立させた。量としての音楽、エレキギターとは、そうした現代の音楽の一面を理解する契機だともいえる。そしてそれを私はここでは「ロック」という言葉で呼んでみたい。つまり、音楽のひとつのジャンルというよりは、20世紀に量的拡大を被った音楽及び音楽を巡る現象全般としての「ロック」。
もちろん、電化という意味では、ジャズは現象としての「ロック」に先立っている。ビーバップ初期から、つまりはチャーリー・クリスチャンの時代から、ギターは電気的にアンプリファイ(音量的増大)されているわけで、まさに電化ジャズという意味でもこの楽器は優等生的なものなのである。しかしその後、「ロック」における飛躍的な量的炸裂を横目でみながら、ジャズギターは量の生産とは一線を画してきたといえるだろう。例えばジャズギタリストに使用されてきた楽器はほとんどの場合が、ボディが空洞になっているタイプであり、こうしたタイプのギターだと、ある程度大きな音をだすと、ボディの空洞が共鳴してハウリングを起してしまうことになる。つまり十全なる量的パワーの炸裂を実践するには不十分な構造をもったギターが、結局のところジャズでは用いられ続けたということだ。この量的な観点からは不十分な楽器(フル・アコースティック・エレクトリックギター、ないしはセミ・アコースティック・エレクトリックギター)を、多くのジャズギター系のギタリストは愛用するのである。
もっともだからといってジャズギターは量ではなく質の世界である、などと言うつもりは毛頭無い。量と質は対立的な概念ではなく、量は質的でありうるし、質は量的でありうるからだ。多分いえるのは、例えば、倍音成分の強力な増大によって3度の音程すら不明瞭なものにまで持っていき(つまり強力なディストーションサウンド)パワーコード(完全5度の世界)の分厚い世界を構築するロック的指向性(あるいは嗜好性)−それはロックの音響としての本"質"だと思う−とは異なり、ジャズギターにはそうした指向性(あるいは嗜好性)がない、ということである。ある意味では当たり前のことだが、ジャズの和声的特徴/伝統は、ジャズギターの量的拡大を妨げている一つの大きな要素なのだ。そしてもしその特徴/伝統を棄てるならば、ジャズギターは、ロックギターと本質的に違いのないものになっていくであろう。また一方で、ジャズギターの70年代における一つの変容、つまり量的拡大とジャズ的和声との融合・調和こそが、クロスオーバー/フュージョンギターの特徴なのだということもできるであろう。
8年くらい前だったか、ビル・フリーゼルのバンドにジム・ホールがゲスト参加したセッションを聴いたことがある。特殊なファイバーで作られたギターを用いるビル・フリーゼルは、例によってモジュレーション・ディストーション・ディレイ・リバーブ等を組み合わせ、そして音量をボリュームペダルでコントロールしたり、トレモロアーム(だと思うのだが)で弦のピッチをコントロールしたりと彼独特の世界を作る。一方ジムホールは、ノーエフェクトで、フル・アコースティック・エレクトリックギターからアンプへの直結という彼らしい伝統的なセッティングだった。基本的には昔通りのジム・ホールと、テクノロジー駆使のビル・フリーゼル。しかし彼らは量的なもので「勝負」しようとはしない。これは多分ジャズギターの伝統だ。可能性も限界もあるジャズギターの特性なんだと思う。量的な土俵では絶対「ロック」に負けるからね。