音 

林田裕一氏のオルガントリオ、ジャズカスにトランペットの類家氏客演を聴きに行く(at Mile's cafe)。ドラム天倉氏及びギター森氏とのオルガントリオは安定感を感じさせる段階に入っていると思われる。

私も一曲演奏させてもらった。ベースの田中啓介氏やサックスの荒木真氏、そしてサーロ氏のタップも聴けるセッションもあって盛りだくさんのギグだった。

帰路では森氏と音楽についていろいろ話す。森君の日記にも書いてあるが、音色の話とかいろいろ。

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=11200&pg=20050225

森君も書いているように、弦楽器系では、ある種のスタンスをとり続けようと思うと、「弾きやすさ」と「得たい音」はトレードオフの関係になると思う。つまり、弾きやすさを求めるとある種の音色を犠牲にしなくては鳴らなくなるし、音色を求めると、スムーズで高速なフレイジングを諦めなくては鳴らなくなることが多いと思われる。もちろんからだが大きくて柔軟な筋肉を持っていて、瞬発力もある人はまた別ですが。

森君と話をしていた同じ頃に、どうやら林田、田中、荒木両氏も食卓を囲みながら音の話をしていたらしい。日記を読むと後からいろいろ分かって面白い。

http://blog.livedoor.jp/hide_and_seek_05221/archives/15060251.html

森君のところでも書いてあるとおり、林田君の音は、いい音だと思う。いうまでもなく、「きれいな音=いい音☆汚い音=悪い音」という図式は、多くの場合正しくない。汚くて強い音がいい音の場合は多いのだ。音に汚れの要素がないと面白くない音楽、例えばある種のロックとかヒップホップとか、またジャズでもそうだと思うのだが、汚れは不可欠な要素でさえあるのではないかと思われるのだ。そういえばクラシックのバイオリニスト、故アイザック・スターン氏の音は近くで聞くと、綺麗な音とはいえない云々という話をどっかで聞いたことがある。

森氏のギターの音は、いわゆるジャズ的なモコモコした感じの音とは違い、エレキギターのもつある意味粗雑な音を一切隠蔽しようせず、時には耳障りな倍音さえ自分の武器にしているように思われる。だからこそプレゼンスの強い音としてアウトプットされ、人の耳に届くことになるのだ。エレキギターの演奏の歴史とは、倍音の獲得の歴史でもあることを忘れるべきではないのだ(ロックプレイヤの極端な倍音の獲得=ディストーション、あるいは逆に極端な倍音の廃棄=ワウ、を参照せよ)。

(ちなみに、昔ジム・ホールをライブでみたことがあったのだが、トーンを絞るようなかたちで「ジャズっぽい」モコモコした音を出すのではなく、きちんとプレゼンスのあるバランスのよい音で、演奏していたのが印象的だったことを付言しておこう)

いい音は、ミュージシャンの宝だ。もちろん音は、ただ楽器にこだわったり、エフェクタ、アタッチメント、ディバイスに凝っていれば獲得されるというわけではない。同じ楽器を同じ条件で弾いても、人によって音は全く変わってくるものだからだ。

しかし、ただ音を属人的なものとして考えるだけでは、不足があると思う。
先日テレビでチェンバロの演奏を聴いた。チェンバロというのは基本的には演奏によって音量を変化させることはできない楽器なのだが、奏者はメロディアスな抑揚を強く感じさせる美しい演奏を行っていた。微妙なニュアンスによって、音量の変化がなくとも、音は変わる、音色は変わる。

音とは、音色とは、演奏中常に一色というわけではない。いろいろな色合いが、トータルとしてある演奏者の音となっているのだと考えるほうが、演奏者にとっては生産的な考え方だと思う。つまり、音はただ属人的なものではなく、プレイヤにとって音(色)は可変的なものである、そして音(色)を可変させる技術こそが、最も重要な演奏の技術の一つなのだ。

音を考えるのは面白いなあ。


[2005/02/28 11:00] instrument/play | TB(0) | CM(0)

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