Mile's Cafe mixi off-party  

このブログ,「セッション通信」というタイトル。

実はドイツ時代によくセッションに通っていて、それをshiinabandのBBSで書いたのが嚆矢。最近はちっともセッションについて書かなくなってしまっている、というかこのブログ自体ちっとも新しい記事を書いてないじゃないか、というわけで、6/12日のマイルスカフェでのoff会セッションに行きました。

 私が参加させてもらったのは、Iユll close your eyes.、Tenor Madness.、Sユwonderful,.、Fのfunk。Sユwonderfulは私にとっては初めて演奏で、そういうのに当たると,スタンダードの演奏が最近の課題の一つである私にとっては大変勉強になる。Fのfunkは30分近い熱演、またTenor Madnessは4管の競演となり盛り上がる。

 30分funkのエナジーの元は、テナー&mc&存在感のデンクロウ氏。氏とは先月くらいからの付き合いであるが、氏の所属するバンド,「武蔵野ファンク」のライブに行ったり,メールでfunk等についての意見交換をしたりと、親しくさせていただいている。

 日本のFunk受容には様々なかたちがあって、様々な可能性があると思うが、そうしたなかでデンクロウ氏がユニークなのは、ワシントンGo-Go、チャールス・ミンガス、カウント・ベイシーを一つのライン上でFunkとして捉えうる視野を有している点である。テナーとトロンボーンの2管編成のインスト・ファンクグループ「武蔵野ファンク」からは、そうした方向性が垣間見られ,私としては興味深くライブを聴かせてもらい、刺激を与えてもらった。氏のFunk受容のユニークネスは、氏の文化享受の繊細さの証でもある。

 もちろん言うまでもないことであるが,溢れ出るパッションとそれをこれでもかこれでもかと他者に植え付けようとする志向性の強さといったFunkerとしての矜持については、デンクロウ氏にとってはイロハのイのようなものかもしれない。氏にかかれば、上述の30分間funkを持続させコーディネートしてしまうことなどはまさに朝飯前なのであり(笑)、またそれは、北米で開花したアフロルーツな音楽文化の一つのかたちに対する氏のリスペクトの所在証明とも捉えられよう。

 Funkなるものの再考の機会を与えてくれたデンクロウ氏に感謝である。

[2005/06/13 03:42] gig/session | TB(0) | CM(3)

Funkの誕生

シーナさんのベース最高でFunk盛り上がりましたよ、と言うとこの場では阿諛追従めいてどうもいけません。
しかし個人的に貴重な体験させていただきました。感謝。個人的なFunkerとしての「矜持」と言えばすなわち「他力本願」ということです。

かのリロイジョウンズの受け売りで言えば、ブラックミュージックとは変わり続ける同じものと言うことですが、非常に説得力のあるものだと思います。確かに歴史認識を涵養するのにアカデミックな素養が必要であり、当然演奏者の存在があれば彼は当然ディシプリンを貸され続ける存在である訳ですが、最近特に感じていることを。

ウチのトイレが詰まったことがありました。もうどうにもならない。詰まったのが金曜夜。土日は大家が企業の為、連絡取れず地獄の2日間を過ごしました。腹のすき具合は主にその時間帯に集中しますが、出す方はもう所構わず時間構わずです。小用であれば物陰で早々に処理が可能ながら、大用を足せる物陰なぞこの広い大東京には有り得ず、またこの大用と言うのはそれなりの設備を要されるものと、心から納得致しました。飲みたくも無いコーヒーを飲み、また食事をし、それもすべて同じ場所では済ます訳にも行かず時には居酒屋にも行きました。目を充血させながら、オーダーしてトイレに駆け込む男を店の人はどんな目でみるのだろうか思い返す余裕すらありませんでした。

食事をしなければ当然生きてはいけませんが、しかし、逆に出す、ということについても時と場合によっては社会的な生命を失いかねるほどのファクターを持ち得るものかと思います。

大変汚い話になりました。

排泄物とはメタンガスを発生させるほど悪臭を放つものですが、またこれが常時人体に内在してあることは事実です。しかしながら、この排泄物の匂いさえを消去してしまう薬品まで販売されている今日の現実に愕然とします。sれが当然放つべき悪臭と言う自明を否定してしまうことは人が人でなくなってしまう、根源的な何かに手を入れている気がするのです。

こうしたわかりやすいデオドラント的な風潮?も然りですが、一種の寄らば大樹と言うべき極端なデオドラント現象は、例えば社会生活と言う規定にあてはまならい、当てはめることの出来ない人間の排除と言う言い換えも可能です。言い換えれば寄らば大樹的な、体制内で許容される音楽しか許されない風潮を感ずるのは俺だけであろうか。

「サックスプレイヤーとしてあらゆるジャンルに対応できるのは、ビックバンド系のプレイヤーの音であり、それは取りも直さずマイケルブレッカーの音だ。だからマイケルに学ぶべき。」と言う論を聞いたことがあります。これ音楽の話と言うよりも、就職活動の話のようです。(マイケルもビックバンドも知らない俺にとってこの話の内容を云々することは出来ません)またこんな馬鹿話が一種のリアリティを持ってしまうのも異形を排除する現代社会に生きているからならではのことかとも思います。

日本に於ける能や狂言、ひいては賀茂河原の祭文詠みがそうであるように、Funk大きく言えばブラックミュージックそのものが異形の者の文化と言うか、なりわいだと理解しております。この際この異形と言う言葉敢えて使っています。「異形の者が異形の者たる根拠」を云々するほど俺の理解が進んでいるとは言いがたいのですが、それが昨今のデオドラント化された市民社会の側にあらざるもの、許容されざるものに根ざしているものであると言えるのではないかと思います。

市民社会に容れられない者がいたとして、その者の奏でるものがブルースであり、ファンクだと言えばロマンティックすぎてとても実証的な姿勢とは言えませんが、しかしながらファンクが盛り上がりとかそういう言葉で形容されてしまう程他人を踏みつけるような言い分でも無いように思います。思いつくまま乱文、失礼、多謝。

[2005/06/13 20:00] デンクロウ [ 編集 ]

>Funkの誕生

デンクロウさんコメントありがとうございます。

デンクロウさんとメールで意見交換したテーマの一つに,規律と身体性とFunkとの関係があったと思います。規律(ディシプリン)とは管理社会を成立させるベーシックな技術ですが、一方では成功したFunk団体にもある種の規律といってよいであろう技術を用いたものがある。JBしかりEWFしかりフェラしかり。共同体的凝集性はある種のイデオロギーや宗教,実際の共同生活等ー多分,究極的には「アフリカ」というキーワードに結びつくであろう観念、習慣,行動等ーによって規律を伴いながら生み出され、それが音楽を強いものにしているということもまたいえることではないかと思われます。

これらには、どちらかというと、プレモダンな儀礼を援用することにより、共同体的凝集性を高めるという傾向がある。この場合,例えば,デオドラント的なもの/排泄物,市民社会/異形のもの、といった2項対立と、モダン/プレモダン,という2項対立が重なるかたちになるのだと思います。現代社会において排泄物的な異形のものの文化をプレモダン的なー例えば、共同体的凝集的ー手法によってアウトプットしていくといったモデルがひとまずここで成り立つのかと思われます。

だだ,もちろん「市民社会に容れられない者」の表現を、いにしえの疎外のない人間像,共同体像に託すというだけではいささかナイーブですよね。デンクロウさんの、吹奏楽批判的パースペクティブ(デンクロウさんの日記を参照)をすべてカバーする議論とはなっていないですよね。

Funkとは、当然,徹頭徹尾モダンな(あるいはそういってよければポストモダンな)音楽。

消費社会(欲望という観点からの個人の主体化)が、管理社会(効率という観点からの個人の客体化)と表裏一体なのが現代の日本の状態だとするならば、そこにおいてFunkとはどういうものとしてあるのか,あるいはあることができるのか。そういうことを考えさせられています。

ついでに言うと,個人的には,音楽と社会との関係を考えると,原理論的には、どうしても、いわゆる「疎外論」的な問題構成になってしまう点が,自分自身不満なんです。その辺,メルマガの「電化ジャズ通信」で書きはじめた全然電化ジャズと関係ない文章のテーマでもあります。

「電化ジャズ通信」は、
http://blog.mag2.com/m/log/0000092227
を参照ください。






[2005/06/15 11:51] シーナ [ 編集 ]

ちょっと遅くなりまして

シーナバンドのwebsite誠に勝手ながら俺のwebsiteにリンクしてしまいました。ご寛恕下さい。

今でもDCではGo−Go特訓と称し若い連中など親方の命で夜通しGo−Goビート叩かされると聞きます。どうも日本ではこれらが学問的に需要されすぎているような気がしますね。勿論サーカスとかは別だと思いますが。曲芸師は酢を飲んで体をやわらかくすると言いますね。自分の身体を内側から変化させてしまうと言うのは三島由紀夫のようで、ひとつの魅力ですが、音楽にも相通ずるものがあると思います。先日のメルマガで頂いたフルトヴェングラァの話などそうですね。西洋人は肉体を刻み込むと言う作業が業のようになっていると思います。これは日本では見られないものですね。

フルトヴェングラァの話で思い出したのですが、現在高名なクラシックのオーケストラはその初期にやはり優れた親方ががっちり鍛え上げるみたいですね。そういう親方がいて初めて成立するとも言うそうです。これはむしろクラシックと言うよりも、恒常的に活動する団体の場合にはジャンル問わず要求されることであると思います。

また日本と言えば京都の三十三間堂の裏側の廊下にある「婆痩仙人像」と言うのが仏教美術としては類例の殆どないだろうと言う表現として面白いです。ジャコメティの彫刻のようで、むしろ衣擦れの内側の引き裂かれる自我のようなものを感じます。ただこれはあくまで日本独自の歪みの世界だと思います。

Funkとは原初的な音楽、少なくともブルース衝動の発生と端を同一とするものではないのかと、特に昔のデルタのブルースミューシャンの演奏を聴くとよく理解できるのですが。このFunkと言う一つの音楽を指し示す理解の成立が60年代後半70年代初頭にあったとすれば、これは公民権運動に導かれるところの黒人一般大衆の精神的なアティチュードの変化に起因されるところのものだと思います。

当然それを待つまでもなく、Funkと言う一つのインティメイトなセンティメントは黒人内在的なものであろうと思います。

その点でFunkとはモダン、というよりも、モダンな音楽性(例えばHerbieHancock)にFunkが乗ったという風には考えられるのではないか。この場合Funkとはその特定の何かを指し示すよりも、状況状態を指すものとして俺は使っていますが。

逆にいえばFunkとは例えばHerbieに代表されるきわめてモダンな音楽性を持ったミュージシャンに演奏されたところのもの、でなくより黒人普遍の内在的なもの、と言うのは危険なものだろうか。

現代から遠近法のように聴くのではなくて、その時代の可能な限りの音源を聴いてさらにJBを聴けばJBはHerbieと同じくモダンな音楽性の持ち主であり、またモーリスホワイトについても当然同じことが言えるものと思います。

同じくまたFelaに至っては同時代のアフリカジャズのミュージシャンと比せば、敢えてソフィスティケイトといい得るものです。

ただここで現代より遠近法でその時代の先進的なミュージシャンにFunkと言う様式そのもの(詳述せず)がモダンとして受け入れられた享受された、と言うことは言い得るものだと思います。

当然われわれは今日の日本に生きており、これら黒人とはまた異なる問題を抱えて生きておりますので、当然受容は異なってくるのだと思います。ただこれが単なる盛り上がり音楽としてだけの消費であれば、如何にもずうずうしい話であるとは思うのです。
[2005/06/19 22:04] 鐵切 伝九郎 [ 編集 ]

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://tatsujin.blog4.fc2.com/tb.php/295-8a98df4d