音楽の演奏は、多かれ少なかれイメージ(=想像的なもの)を媒介にしている。
しかしイメージというのは基本的には個人的なものだ。だからそのイメージを人に伝えることは困難であり、伝わったと思ってもそれは単に誤解に基づくものとなる。もちろん創造的誤解の場合もあるところが面白いところでもあるわけだが。
例えば、バンドのリハでボーカリストが、「大サビは雲の上に乗って歩いてるような感じでお願いします」などと言ったたら、バンドの面々はたいてい鼻じらむか、苦笑しながら分かったふりをするか、そんなもんだ。
ボーカリストにとっては、きわめて真っ当なイメージも、他者には通用しない場合がある。しかし、そのボーカリストにとって、「雲の上云々」というイメージはきわめて重要なもので、それを媒介にしなければ、彼/彼女の音楽は成立しないのかもしれないのだ。
例えば、シェーカーやマラカスを振る練習を突き詰めるパーカッショニストは、その楽器のなかで踊っているツブツブ一つ一つの動きをイメージするかもしれない。そしてそのイメージを媒介としてすばらしい粒立ちの演奏を実現させるかもしれない。しかし、そのイメージは、基本的には人に伝授できる性質のものではなく、個人的なものだ。
さっきのリハの例に戻ろう。それではボーカリストはバンドにどう指示を出すべきなのか。それは一般的に流通している音楽的な言語を利用することである。象徴的なもの、すなわち共通言語の世界にそのイメージを翻訳する必要があるのだ。例えばボーカリストはギタリストに対してコードのアルペジオ弾きにフィードバックをかけた短めのディレイを掛けて欲しいだの、キーボード奏者にドミナント7thをIV/V的に弾いて欲しいとか、ベース奏者には音価をたっぷりとって細かくならないようにとか、自分のイメージを実現するための指示を、通じる言葉で出せればよい。それは「雲の上云々」とは全くことなる意味をもつ表現なのだが、「雲の上云々」なる表現をポロンと口にするよりも、サウンドとしては「雲の上云々」的なものに鳴る可能性が高いと思われるのである。
記譜法というのは、非常に洗練された音楽における象徴的なもののかたちである。訓練を受けた音楽家達は、譜面に基づき初見でさえ高度な音楽を演奏することができるのだ。バークリーメソッドとかの音楽理論的なものも、同様に音楽における象徴的なもののかたちである。
ここで言いたいのはしかし、音楽における象徴的なものの重要性ではなく、むしろ想像的なもの、イメージの重要性である。たいていの場合、象徴的なものなど、たかだか最小公倍数的なもの、共約可能なもの、コミュニケーションの便利な道具に過ぎないではないか。というより、高度な象徴的構築物の実現のためには、イメージ的なものの媒介が不可欠だと思うのだ。それも極めて個人的なイメージの世界が。
だが、この個人的なイメージの世界なるもの、実はマスイメージの継ぎ接ぎで構築されているってのもまた確かなことーポップアートを示すまでもなく←ポップアートを否定してるわけではありませんよー。基本的に、ポップスっていうもの自体、いまやマスイメージのパッチワークだと言ってしまえばそれまでなのだ←ポップスを否定してるわけではありませんよー。個人的なイメージの多くの部分がマスイメージの集積によって成り立っているってのが、20世紀以降現在に至る私たちの想像的なものの有り様。私は上で、「イメージというのは人に伝えることは困難」と言ったが、マスメディアが大量にばらまくマスイメージは、「共有」可能、正確に言えば共有可能に「みえる」のだ。従って、これらは、イメージという言葉よりもイデオロギーという言葉を使って表した方が良いのかもしれない。
あらためてまとめてみると、ここで私が言いたいのは、象徴的なもの(共訳可能な便利な言語的なもの)でもなく、注入されるイデオロギー(マスメディアによるマスイメージ)でもなく、個人的なイメージ喚起力の重要性。現在はイメージの時代、ビジュアルの時代だっていうけど、それは多くの場合既にマスイメージ的になっちゃってるものだってこと。マスイメージの集積と戯れるのではなく(まあそれもいいんだけどね)、極めて個人的なイメージ、翻訳不可能なイメージが生み出す何かに賭けてみるってのもありかな、と思うわけです。
ワタシもよくイメージだけを伝えてしまい、メンバーの方にご迷惑をおかけしております。そんなんでわかるわけないですよね。皆さんと同じ言語で話せるよう、もっとお勉強します、、、猛省。
[2007/02/11 10:55]
Y嬢
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勉強になります。
最近は自由な発想を持てる人間になりたいと思ってます。それがなかなか難しいんですよね。ついつい当たり前の事をしてしまう。
僕は奇抜な音楽をやりたいとはべつに思わないんですが、枠を感じさせないドラマーにはなりたいですね。
[2007/02/12 20:02]
さだ
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音楽って数値や尺度じゃないしましてやバンドやユニットだと各々が同じ方向や個性とは限らない訳ですしだから面白いしシーナさん流で言うところの最大公倍数がおいしい味出すんだと思いますよ
そこまで旨く噛み合える人間関係の構築も大変だと思いますけど
実際音出し始めたらそんなのどうでもいいやくらいなのが音楽なんですよね 不思議♪
楽しんで読みました。歌うとき、演奏をどのようにしてほしいかの言葉の選び方は、メンバーに通じない表現をして混乱させるくらいならむしろ黙ってなりゆきにまかせたほうがいいくらい影響があるとは思います。でも共通する言葉というのが、また構成員ごとに違っちゃうのが難しい…
クラシック由来のしっかりした音楽用の記法や言葉は、その知識を持っている人どうしには効果があると思う。でも、その方法を使うこと自体に価値があるんじゃなくて、その道具できっちりと、心の中にしかないこれから作りたいものを共有しあって演奏に臨むのが目的で。
誰もが認めるどこにもないものを鋭く追及するのはすてきだし、そうでなくても、どこかでさんざんやられてきたことにそっくりだけど、今生きてる目の前のあいつらこいつらとこれをやる、ということも、結果として私にとってほかのどこにもないかけがえのないものになると今は思ってます。音楽は今のところ、私にとって、私がイクためのものだから。。
[2007/02/14 08:16]
のばら
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>Y嬢さま、
趣旨はしかし、自分のイメージ大事に、ということですから、ついてこられんやつはアホ、くらいの勢いでやって下さいぜってことでw!
>さださま、
かなり趣旨通りにとって頂きありがたいのですが、逆にある種の生産的誤読ぎみだったりすることこそが「自由な発想」と繋がるものであるとも思われたりもするのです。自由な発想なるものは、ある意味きわめて不自由なものでもあると思われ、ことによると、単にテクニックがあっていろんな手順をざくざく繰り出しているだけだったりするものを自由な発想にもとづく自由なプレイと誤解する場合もあるわけで、なので、だとしたら極めて不自由な縛りのなかで自由を体現できるようにするもまた面白いことだったりしたりと、いろいろ考えられ・・・・。
>hirokoさま、
たとえばバンドなんかの演奏で(ジャムとかでも)、ミラクル生み出すためには、共通の音楽的知識とか基盤とか趣味とかが必要だと思うのです。つまりミラクルとはルールだということ(暗黙のルールも含めて)。実は、そこには神秘は一切無く、分析可能な、テクニカルなものだとも思うのです。高度な技術、注意深い耳、そして共通の音楽的基盤やら音楽的方向性といった書き出せる要素がミラクルを生み出すと思うです。で、内緒ですが、音出し始めたら一瞬でやめたくなるような(つまり、これもどうでも良くなってしまうわけですが)場合も沢山あるですよねw。
>のばらさま、
今ここでのコミュニケーションの場の問題へと開いてくれるようなコメント有り難うございます。ジャムセッションとかに行くと感じるのですが、やってて楽しいミュージシャンって、個性が感じられる人でコミュニケーションの力がある人、つまり、話し手も面白くて人の話もよく聴く人なんすよね。自分自身のイメージを鍛えるってのも重要だけど、独我的なイメージだけでは通用しない交換の場にてどのようににふるまうか。上に書いたように、それはルール(象徴的規約)を持ち出すこと。
しかし、ルールが通用しない場合はどうするか。1)音楽することをやめる 2)がんばって共通点を見つける、つまりルールを確立しようと努力する 3)相手とはまったく関係なく音楽する
ジョンケージは、ジャズ(フリージャズ)に一時興味を持ったらしいのですが、その後興味を失ったらしいです。なぜかというと、フリージャズは人の音を聴くから、つまりインタープレイがあるから。ジョンケージは、最大公約数的な予定調和がいやだったのかもしれません。って、全然コメントへの返事になってませんですね御免。
みんな有り難う。
[2007/02/14 19:30]
シーナ
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