比較 言語化 習得 選択 

先日都内某所での新年会にて、ジャズピアノ奏者によるソロピアノアルバムばっかり聴くことができた。となると、当然、比較するわけである。プレイののスタイルの比較とか、音の質、そして録音。

人は意識的にであれ無意識的にであれ、常にものを比較している。例えば、赤という色は、それ以外の色との差異によって赤である。従って赤い、と口ずさむとき、人は赤でない色との差異によって赤という色を意識せざるを得ないのである。

例えば、あるプレイヤをいいと思うとき、それは他のプレイヤとの比較において、相対的にいいと思ってるわけである。「いい」というのは、「悪い」とか「まあまあ」とかそういった別の言葉との差異によってなりたつのだから。

さて、この比較による優劣の知覚は、演奏者、特に楽器の上達を目指すものにとっては、自らの演奏技術の向上の契機として非常に重要だと思うのだ。しかし、その優劣の知覚、すなわち、「あるプレイヤのこのプレイはすごくかっこいい」と思う気持ち、これを、どう生かすか、どう自分のプレイ向上に還元できるか、それはまずは、その知覚の徹底的な分析によってしかないと思う。この分析とは、別の言葉でいえば、言語化である。「かっこよさ」なるものをを成り立たせている諸要素を、できるだけもれなく、言語化してみること。この言語化には、譜面にすることも含まれる場合もあるだろう。どこがどのようにカッコいいのか、それを明確に意識すること。それはその「かっこよさ」なるものを言葉にする、「かっこよさ」を構成する諸要素に分解し、理解を高める以外にない。

かりにあなたが天才であれば、そんな作業は必要ないかもしれない。かっこよさを分析(言語化、あるいは諸要素の束に分解)すること無しに、それを体現することがでるならば、私はそれを天才と呼びたい。天才も習得のための練習は必要だ。但し天才は、習得のための分析を必要としない。つまり言語化のプロセスを必要とせず、現象をただ現象として習得できるものが天才だと思うのだ。

しかしあなたが天才でなければ、かっこよさなるものは、分析というプロセスなしにあなたのものにはならない。

比較というのは優劣の判断を人に突きつける。もちろん相対主義もよいだろう。しかし、多くの人はそれほど器用ではない。しかし同時に多くの人は怠惰だ。選択には勇気が必要なのだ。あるものを「かっこいい」と口ずさむとき、意識的無意識的の違いにかかわらず、他のものとの比較がその言辞の背景にあるということを理解しておくことは重要だと思うのである。
[2008/01/12 13:50] music in general | TB(0) | CM(0)

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